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平安時代初期に、坂上田村麻呂が東北地方を平定しに行ったことについての質問です...

ユーリさん

2014/10/2523:23:55

平安時代初期に、坂上田村麻呂が東北地方を平定しに行ったことについての質問です。


①当時の東北地方は、昔からヤマト朝廷に従属していて、平安時代初期に反乱を起こした。

②昔から、ヤマト朝廷に従属していなかった。

どっちなんですか?


前方後円墳が東北地方にもあることを踏まえると①なような気がしますが、学生時代に勉強したイメージだと②なような気もします。

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shi********さん

2014/10/2617:50:55

攻める朝廷もバカでもなければ、受ける蝦夷も屈強。
そうした、公平に見る視点、あるいは前提って、歴史を見る上で重要だと、僕は思っているんですね。
そうした中で、たとえば坂上田村麻呂や、アテルイなどが活躍する8世紀後半ですね。

それまでも、ささやかな抵抗が見られ始めるのですが、まぁ、東北が、いわゆる蝦夷の征討などの影響で、混迷を深めて行くのが、この頃で、具体的には宝亀11年(780年)胆沢城(いさわじょう)への前線基地を築くため、征夷将軍・紀広純そして道嶋大楯らが伊治城に入城。
そこで俘囚(ふしゅう)とよばれる、伊治大領という郡司の地位にある、伊治砦麻呂(いじのあざまろ)との間で、ささいな(本人にしてみたら違うかもしれませんが)口論が起きます。

その結果、侮辱されたと考えた砦麻呂は、伊治城を包囲。あろうことか広純・大楯らを殺害してしまいます。

ここで、一般に朝廷に帰順した蝦夷について、前出の俘囚とよぶこと。
ですから、伊治城包囲の直前まで、伊治砦麻呂は、朝廷に帰順した蝦夷であった、という事なのですが、これ、うまく想像してほしいのですが、ムズカシイ立場ですよね?

我も蝦夷でありながら、早々と朝廷に帰順し、朝廷の傘の下で部分的な保身に成功している砦麻呂。
むろん彼は、その他の蝦夷さえも、朝廷に帰順するよう、教導する役割も与えられていたのでしょう。
そして朝廷軍は、さらに奥地、胆沢城まで進む予定。

以上のような内的葛藤が砦麻呂にあり、さらに道嶋大楯に幾度となく夷俘(いふ※蝦夷の蔑称)といわれた所が発火点となり、伊治砦麻呂は朝廷に対し、反転、攻勢をかける。

そして…
多賀城碑で有名な多賀城。これはもう、鎮守府がおかれる、朝廷の東北経営の最大拠点なのですが、砦麻呂らは、これをあっけなく陥落させ、北へ凱旋しています。

以上の経過からわかる事がいくつかあると思うのですが、大鉈ふって簡単にまとめれば

「砦麻呂の反抗の前段階。朝廷は蝦夷の手により、他の蝦夷らを交渉を以って帰順させようと考えていた。だからこそ朝廷は軍事拠点たる多賀城にさえ、十分な守備兵を置いていなかった」
こう考えられると思います。

最後に回答です。
主様が①で表現する「従属」なのですが、これの度合いですね。濃淡は当然あったのでしょうし、状況としては斑目状に、帰順する勢力としない勢力が混在している状況にあった。
ですから①とも②とも受け取れるかとは思いますけどね。
ただ、より近いのは①でしょうか?

なにせ守備兵なき多賀城を想像する時、冒頭の話ですね。朝廷だってバカではないので、かなり安定した環境になければ、きっと十分に資材や人的な充足を考えたはずなのに、それをしていない事から、これはもう砦麻呂らの活躍。これにより平和的に蝦夷を帰順させることができる。それを想像するに足る根拠が、そこかしこにあったんでしょうね。

そして、以降の歴史はご承知でしょう。
探求操作に優れ、ゲリラ戦を展開する蝦夷に対し、朝廷は何度も煮え湯を飲まされる。
しかし、ご指摘の坂上田村麻呂の大遠征により、朝廷も部分的な勝利をおさめるに至り。そこで手打ちですね。

衣川以北については、蝦夷の自治をみとめ、しばらくの間、朝廷と蝦夷は協調路線をまもる、微妙な運営が東北ではなされていたのであろう。

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pin********さん

2014/10/2607:47:25

「旧唐書」には、「倭国伝と日本伝」が併記されていて、当時の列島には二つの大きな集団の存在を伝えています。
「倭国伝(九州倭国)」の方は、東北の蝦夷との関係が柔軟で、「蝦夷の男女2人を遣唐使船に載せて、中国皇帝に朝貢させています(倭の属国と言う意味合いも多分にあるのでしょうが)」。
「日本伝(ヤマト朝廷)」の方とは、対応の違いによって敵対しています。
「近江朝の開設から奈良朝政治史」の間で、政治的に「倭国優勢」の時は混乱がなく、「ヤマト朝廷(天智ー藤原系)」が優勢になると叛乱を起こしています。
都が、平城京から長岡京を経て平安京に遷都し、「天智ー藤原系」の時代が到来すると、完全な戦闘状態です。
回答としては、②の変形で、「九州倭国には従属していたが、ヤマト朝廷には従属していなかった」。

sto********さん

2014/10/2603:30:34

まずヤマト政権における地方支配ですが、国魂(地方の守り神)の子孫とされる首長を同盟者と見做し、首長に統治を委ねていた。
大王家に従った首長が祀る神は、大王家の祖先神に従う神とされ、亡くなった首長を神として祀る為に古墳が築かれた。
ヤマト政権は武力を用いず、祭祀を通じた繋がりで東北地方に進出していったとされています。
六世紀末までには会津辺りまでヤマト政権は進出したのですが、均等に南から北へ進出したのではなく、従う地域と従わない地域が複雑に点在していた状況であったとされています。
その後、阿部比羅夫が船団を率いて津軽に上陸など軍事的行動を経て、奈良時代には秋田・岩手の辺りまで従属化させた。
律令制度が確立すると中央から派遣された国司の元で、かっての首長は郡長となり郡長を通して間接的に東北を支配したのですね。
しかし実情は、東北地方の実情に疎い国司が郡司、豪族らに中央の法を押し付けた事により度々反乱が起きていました。
この反乱に対して坂上田村麻呂は、「太陽政策」(武力で従わせるのではなく、農地の開拓を推し進め豪族らに実情に応じた農業指導をした)をとり豪族らの支持を取り付け反乱したアテルイを孤立させ、反乱を鎮圧した。
回答は①で宜しいかと思います。
ヤマト政権の支配はゆるやかであったが、律令制の確立により地方から派遣された国司の現状を無視した支配に対して反乱がおき、それを坂上田村麻呂が鎮圧した。

won********さん

2014/10/2603:25:59

②ですね。

「蝦夷」と呼ばれた当時の東北地方の住民が大和朝廷に従わなかったのは単に地理的に距離が離れていたせいもありますが、それよりも東北地方の人々にとって大和朝廷は自分たちの先祖を迫害した憎き敵だったからです。

大和朝廷は大陸から九州北部に上陸し、神武東征の神話が示す通り、それまで日本に住んでいた狩猟民族(縄文人)を迫害してその地に定住した農耕民族(弥生人)が建てた王朝です。縄文人は東へ東へと追い詰められ、東に行けなくなると北へ追いやられ、最終的に現在の東北地方に押し込められてしまいました。

だから東北地方の人たちは頑として大和朝廷の支配に抵抗したのです。

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