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明智光秀の織田信長に対する謀反の原因について様々な説が有りますが、先に謀反を...

jgb********さん

2015/2/1608:58:05

明智光秀の織田信長に対する謀反の原因について様々な説が有りますが、先に謀反を起した荒木村重や後に反旗を翻した長宗我部氏との関係、外様で有る事、で疑い深い信長に疎まれると光秀が思うのに、

原因として十分なのでは無いのですか?

補足光秀が仲介した足利義昭、光秀の娘が嫡男に嫁いでいる荒木村重、光秀の重臣の親戚筋である長宗我部元親、全てが信長に逆らっているわけで、光秀とすればこれだけで信長に疑われていると疑心暗鬼になるのではないですか?おまけに家来としては外様なわけですから。

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タコタコさん

2015/2/1612:12:59

叱責や折檻と言った事や、仰る様な環境は確かにそうなんですが、実はそうした事とは裏腹に信長が光秀に与えていた待遇は織田家臣団トップクラスの厚待遇でした。

佐久間追放後に後任の畿内統括の司令官に抜擢されたのが光秀でした。

旧領の近江坂本に加え、丹波一国、更に丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶等、近畿地方の織田傘下大名も光秀の与力として配属され、光秀支配の丹波、志賀郡、南山城を含めた、近江から山陰へ向けた畿内方面軍が成立し、これら与力の所領を合わせると家中最大規模の実に240万石ほどにもなるのです。

更に織田家の威光を天下に示す一大イベントとなった「京都御馬揃え」の総奉行を務め、畿内衆を率いて自らも参加しています。

この馬揃えは秀吉や一益は参加を許されておらず、光秀が外様ながら柴田、丹羽に次ぐ家中の席次を与えられていたと言えます。

その後も甲州征伐への従軍、徳川家康の安土接待は何れも畿内司令官としての役割…つまり信長付司令官と言う信長を護る役割を託されていたのです。

信長は前任の佐久間に対しても岐阜、安土時代を通して、しばしば骨休めに城下の佐久間邸を訪問し、また長期滞在もしています。余程居心地が良かったのか、信長がこれほど己の身を安心して託した家臣は彼の他には居ません。

数ある織田家臣団の中から、その佐久間の後任の畿内司令官に抜擢されたのが、外様の光秀だったのです。

実際に信長は佐久間追放に際して送り付けた「折檻状」の中で、

一、明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。

一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。

として光秀を秀吉と並んで家中で最も高く評価しています。

それだけ評価し、信頼を寄せていた光秀だったからこそ、信長は本能寺にたった数十人の手勢で宿泊した…

「光秀に任せておれば間違いはあるまい」

との意思が明らかに見えます。もし多少でも光秀を疑っていれば供回りを増やすか、信忠と共に二条城に宿泊したでしょう。

だからこそ光秀謀反を知って、

「是非も無し」

の一言で終わらせた。謀反に対する怒りよりも、己自身の身を光秀に託していた信長からすれば自業自得の諦めの胸中に達したのだと私は思います。

光秀が備中行きを命じられた事(秀吉傘下を命じられた?)が引き金になったとの説もありますが、備中に信長が赴くのであれば、甲州征伐同様に畿内司令官として信長に従軍するのはある意味当然の職責であり、秀吉の指揮下に入ると言うのもあくまで一次的な措置に過ぎません。

これは遊軍司令官として若狭、北近江衆を率いた丹羽長秀も柴田勝家や格下の秀吉の応援として度々北陸や中国に入っています。

また、遺恨説ですが、光秀は本能寺の変の前年に記した「明智家法」末尾に、

「自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」

という趣旨の文を記しており、光秀自身も信長から外様ながら破格の厚待遇を受けていると認識していた事が伺えます。

だからこそ「本能寺の変」は天下を揺るがす大事件となり、今尚明確な光秀の動機が解明されない日本史最大のミステリーとされているのです。

  • タコタコさん

    2015/2/1616:42:39

    だからミステリーなんです。

    外様でも破格の厚待遇を受けている。しかも畿内司令官の地位を与えられたのは義昭追放は勿論、荒木村重の謀反より遥かに後の事です。

    信長が光秀を外様だから、義昭や荒木と親しいからと疑っていたら、ワザワザ自分の身を預ける様な畿内司令官に光秀を起用しないでしょう?。

    にも関わらず光秀は謀反を起こした。だからこそ「朝廷黒幕説」が出て来るのです。

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質問した人からのコメント

2015/2/18 11:17:45

降参 本来の光秀の武将たる姿はどのようなものだったのでしょう。勝家タイブだったのでしょうか、秀吉タイブだったのでしょうか。優遇、信頼されながら、信長を裏切った光秀、どのような心情が隠されていたのでしょうか。信頼の故に信長の中枢深くに居た光秀、その逆心の理由はいったい何だったのでしょう。有難うございました。

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oso********さん

2015/2/1711:26:38

光秀と濃姫の怨念・密約説
光秀と信長の正室濃姫は濃の父斎藤家からの従兄妹いとこです。
光秀と濃姫は小さい頃から親しく恋仲にあったと噂されています。
濃は自分の父斎藤道三を殺した夫信長をひどく恨んでいました。
信長の正室になっても、この恨みは消えることはなかった。
濃は光秀と密通しており、光秀が織田家臣として仕官するときも口添えしています。
つまり濃は光秀と共謀し、いつか時期が来たら信長の首を取ろうと、その時を狙っていたのです。
事実、本能寺の変後、濃は信長との思い出を断ち切るため安土城を自らの手で焼き払っています。
一方光秀は自分の領地を奪われ国替えまでさせられ、信長の高野山焼討や本願寺攻めなど神仏を冒とくする悪質誹謗な信長の振る舞いを信頼できず、また信長の下でいくら信長に尽くしてもいつかは自分も佐久間信盛のように失脚されるのでないかと恐れていた。光秀は信長のような男が天下を治めたら、この国の民が不幸になり安穏な世は築けない。そう真剣に考えていたのではないでしょうか?
また信長はイエズス会の布教を許しました。しかしそれはイエズス会の教徒を自分の天下統一の野望に利用しただけで、本人に信仰心など微塵もなかった。
このまったく信仰心のない信長が将来の日本の天守に就くことを恐れ当時ルイス・フロイスは光秀に主君信長の死を願う呪詛として。
「大友宗麟は明智殿に協力する。だから明智殿も必ず信長公を誅してほしい」と。手紙を送っています。ルイスは当時洗礼を受け深くキリスト教を信仰していたキリシタン大名、豊後の大友宗麟に天守を推していました。
この後ろだてもあり、光秀は自分が動けば迷っている毛利や四国の長宗我部元親も必ずや加担してくれる。濃姫との密約も今なら叶えられる。その思いで「敵は本能寺にあり!」と法貫峠から引き返したのだと思います。

dra********さん

2015/2/1622:54:44

明智光秀が謀反を起こしたのは、光秀の与党である四国の長宗我部元親を助けるために邪魔になる信長を殺した説が有力視されていたが、それも最近、元親が斎藤利三宛の書状で信長に対し恭順する意向を表している手紙が発見されたので、この学説もおかしい。
私は光秀が謀反を起こしたのは、実は難しい理由などなく、ただ光秀は「疲れた」だけじゃないかと思います。
光秀は信長より8歳年上で「惟任」と「日向守」など九州にゆかりのある官位や名前まで賜り、このままだと多分九州まで働かされる。切りがない。野心家信長にこれ以上使い回されるのが嫌になった。元々光秀は当時、もうこの辺でいい、自分の余生は趣味に生きたい。旨を重臣に漏らしていました。つまり自分も高齢になり当時イケイケの8歳歳下の猛烈若社長の無理難題に仕える事に疲れ、精神的ストレスも溜まり中国遠征援軍の直前に突然「キレ」てしまった。ただそれだけだと思います。
光秀は信長に冷遇されていたか? 答えはノーです。
本能寺の変の直前まで信長が一番可愛がっていたのは光秀です。織田家臣で一番最初に城持ち大名になったのも光秀です。じつは家臣の中で光秀の意見を一番多く聞き入れたし、一番目を掛けていたのも光秀なのです。
本能寺で最後、森蘭丸から襲撃したのは「明智が者と見え申し候」と聞くと、信長が「是非に及ばず。」と言ったのは、自分が一番目を掛けていた光秀に殺されるのだから「仕方がない」自分の家臣を見る目が浅かったのだから「それも仕方がない」その意味が込められています。

2015/2/1615:02:35

ヤクザの抗争とは、違います。政治的背景が流動するのです。

光秀と秀吉は、同じ信長の家来といえど、光秀は、その政治的な背景で家臣になり、親方様も十分裏切ることが判っています。

そんな、光秀個人の感情や打算で戦は行いません。信長の首を取らなければならない状況に、追いやられてしまった。ということだけです。

ここでは、その状況については、長くなりますので、控えます。



信長の首はとっても、光秀の才覚では、天下を盗らせるわけには行かない、人たちが、過渡期で、暫定太閤をちょうど都合のよい秀吉に、もって行った!と、行っておきましょう。信長は、わかっていた形跡があります。

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ina********さん

2015/2/1613:25:24

馬鹿門共!空想・妄想・机上の空論と無意味であるぞよ!先日の新事実で信は明智を優遇してたことが証明されたであろう、その明智が何故に本能寺を襲う普通であれば明智が馬鹿でもその様な行動はとらん(通常な精神であれば信を襲えば自身や一族が絶滅にされることに恐怖が噴き出るぞよ)がGOしたのである!ではなぜに行動したのか→公家朝廷の頼みであり明智に天下を与える!これ以外のもので動くことはない、秀も家康も関係なし、天助が黒幕である、織田家尾張宗家。

bir********さん

2015/2/1612:15:39

明智は、長宗我部と共闘して四国の分け取り、を
望んでいました。四国は、字の通り4領国、
阿波、讃岐、土佐、伊予で、ここを制すると
、かなりの領土を得られ明智も魅力だった
のでしょう。ところが阿波の三好氏が
脅威かんじて伊予の部将らと結託して
羽柴の与力だった三好康長に長宗我部を
駆逐してほしいと頼み羽柴は毛利との戦い、で
優勢になっていった過程で、この勢い背景に
織田信長に、四国は長宗我部と明智に全部
とられるより、三好を味方にして長宗我部を
討つほうが有利ですと進言し織田信長も変心
していき、ついに四国征伐は、
織田信孝が総大将で与力は、三好康長、丹羽長秀の
編成の軍勢、明智は四国では戦力外通告を
ウケた。
そして織田信長は、明智に羽柴の与力になって
毛利と山陰で戦えと命令。ホウビは出雲と石見を
与える、と言ったが、四国を獲る気だった明智
としては、あまりに、不遇な戦い、に
、かりだされ、しかも四国遠征を完全にジャマ
した羽柴にアゴでコキ使われる戦い、に
行かされるのを大不満で謀反したのでしょう。

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