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ベルサイユのばらについて。

tar********さん

2015/11/1322:48:12

ベルサイユのばらについて。

ラストでのフェルゼンのその後の描写
「ひとり祖国に帰りついたフェルゼンは
その誓いどおり生涯妻をめとらずアントワネットのおもかげだけをおって生き続けるが…
愛する女性をその手からうばいとった民衆を憎悪するあまりやがて心つめたい権力者となっていった
そして1810年(中略)彼をにくむスウェーデンの民衆の手によって虐殺されることとなる」
とありますが、フェルゼンが憎むのはアントワネットの命を奪ったフランスの民衆のはずですよね?スウェーデンの民衆関係なくないですか?理不尽な八つ当たりということでしょうか…。

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re_********さん

2015/11/1415:28:26

フェルセンはフランスのみならず、「民衆」、その者に対して憎悪感情を抱いていたので八つ当たりではありません。

民衆を憎む口火となったのは事実、愛するマリーアントワネットがフランス革命政府によって処刑された1792年10月20日からで、そのズタズタに引き裂かれた思いを実の妹ソフィア宛ての手紙に書き残しています。

『あの方は、私にとって全生涯を意味した女性。
私は何故に彼女の傍で死ななかったのか。
彼女の為に、この6月20日(自ら計画した国外亡命「ヴァレンヌ逃亡事件」)に死んでいた方が今、永遠の苦悩のうちに生き延びて行くよりか、遥かに幸せであったでしょう。
敬慕する彼女の姿は、永久に私の記憶から消え去る事はないからです』

マリーアントワネットの亡き後、月日が変わってもフェルセンの思いは減じず、数年後の彼女の命日にも書き記されています。

『この日は、私にとって畏敬の念に満ちた日である。
私が喪ったものを私はどうしても忘れる事が出来なかった。
私の痛恨は私自身の命ある限り続くであろう』

フェルセンは、自らが計画を立てた(ヴァレンヌ逃亡事件)を実行するも失敗した、6月20日をマリーアントワネットの命日と共に「自分の運命の日」として、絶えず思い書き留めているのです。

フェルセンの思いの連鎖は続き、祖国スウェーデンで外交顧問として復権後も民衆に対して強圧的に振る舞う暴君者になった事で、民衆もフェルセンを激しく憎む様になります。

そんな状況下でグスタフ4世は失政を糾弾されてクーデターによって廃位。
フェルセンはクーデターには関与しなかったものの、貴族たちが作った臨時政府には加わっています。

新しく王位に就いたカール13世には、世子がなかった為に王位継承者に指名されたのは、アウグステンブルク家のクリスチャン・アウグスト王太子で民衆からの支持が高かった彼は1年後に落馬で死亡した事から、民衆から「王位を狙ってフェルセンが殺した」と暗殺首謀者として益々、憎まれました。

1810年6月20日、19年前にマリーアントワネットと国王一家を救出すべく国外逃亡を決行した同じ日…。
フェルセンは、アウグスト王太子の葬儀執行の指揮官としてカール13世から命じられるも、予てより思い夢見ていた「自分の運命」を実現させる為に決行します。

憎むべき民衆を煽り掻き立てた事が発端となり、民衆らも馬上のフェルセンに投石襲撃を始め、引きずり下ろして、流血するフェルセンに暴行を続けます。

一緒にいた副官は、現場にいた近衛連隊の指揮官と兵士たちに制圧を命じるも拒否され、副官に救出されたフェルセンは建物に身を隠すも侵入して来た暴民らに頭部、胸部、腹部など踏み砕かれて虐殺…。
遺体は全裸で排水溝に投げ捨てられるという無惨な扱いを受けました。

フェルセン虐殺での逮捕者は700名で有罪=終身刑となったのは、たったの2名だけです。

長年、6月20日を「自分の運命の日」としていたフェルセンにとっては、自決の日でもあったのでしょう。

フェルセンはフランスのみならず、「民衆」、その者に対して憎悪感情を抱いていたので八つ当たりではありません。...

質問した人からのコメント

2015/11/14 22:36:08

とても詳しいご回答ありがとうございました!

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