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幕末に来航した黒船の戦力って、幕府が慌てるほどの脅威だったのでしょうか?

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ID非公開さん

2015/12/1523:05:29

幕末に来航した黒船の戦力って、幕府が慌てるほどの脅威だったのでしょうか?

日本に黒船がくる以前、隣国の清国ではアヘン戦争が勃発し、清国はイギリスに敗れました。
しかしイギリス軍が、圧倒的な戦力で清国軍を破ったのかといえばそうともいえず、当時最新鋭の軍艦と、清国より優位な火力で、沿岸部の街や要塞を制圧し、巧みな戦術と少数精鋭の兵力で、清国の腐敗も相まって戦意を喪失させての勝利だったのだと思います。

しかしよく考えれば、清国といえば大帝国であり、いくらイギリスでも当時の軍艦では大規模な兵員や物資を輸送することもできずに、まともに地の利がある清国の大軍を相手に白兵戦をしたら犠牲も甚大になっていたと思います。
(実際に広州にいた清国の大軍との戦闘は回避して、警備の手薄な北方で戦闘をしていますし・・・。)

ほかにも、数万の民衆が伝統的な武器を手に蜂起して、イギリス軍を取り囲んで追い詰めたり
するなど質を量でカバーする「人海戦術」で戦力を逆転させきた戦闘は、歴史上数多くあります。

のちの歴史になりますが、日本が経験した日露戦争でも、もし本国からロシアの正規軍の援軍が到着していたら、日本は太刀打ちできないとしながらも、ロシア国内の混乱で戦争継続ができなくなり、運よく講和に持ち込めたり、
また朝鮮戦争の際にも、中国義勇軍の人海戦術で連合国軍を38度線まで押し戻されたり、
ベトナム戦争のように徹底抗戦をして、結果的にベトナムからアメリカが撤退するような、戦力の逆転現象が起きるのはしばしばありました。

なので今考えると、日本の武士が総力で攘夷に臨めば、いくら列強の軍勢でも占領や勝利は難しかったのではないでしょうか?

実際に下関戦争や薩英戦争では、一地方勢力の藩の軍事力で結果的には敗北はしましたが、不利な状況で善戦はしており、外国勢の損害も出て、結果的には絶対的勝利は収められなかったわけですから・・・。

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sty********さん

2015/12/2301:20:00

お台場の大砲はほとんどが1貫目砲でした。そこに11貫目砲を備えた艦がやってくるわけです。しかも、脅しに打ってくるわけです。単純に10倍の威力の武器を持った敵がやってくるのです。刀を持った敵にナイフで戦うみたいなイメージでしょうか。まぁ、びびると思います。

実際に交戦したとしたら、アメリカ側は大西洋~喜望峰を回って大回りでくるしかないので、物量作戦もできないでしょうし、兵站も厳しい時代状況ですので、質問者様の被害を受けつつも日本が守りきったと思います。

オランダあたりからしか情報を得られなかった日本側と、しっかり相手国の情報を収集して交渉に臨んだアメリカ。ほとんど外交をしてこなかった日本との差がでたわけです。

ちなみに、当時の日本は銀も尽きて、外交相手としてアメリカにとっては魅力がありません。交易そのものはあくまでおまけで主目的でなく、中国への補給地点としての港の開港が主目的だといわれています。エアロン・パーマーの計画書に沿った外交目標だとしたら、ペリーの完全勝利です。

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pf_********さん

2015/12/1823:31:08

当時は腐ったとは言え、武士(軍人)が日本を支配して
いましたから

最新鋭の武器の意味を即座に理解したからではないで
しょうか

言ってみれば昭和16年に4機のF15戦闘機が現れた
ようなものです

たしかに軍艦4隻に乗っている兵隊だけを見て
「それがどうした」
と言うこともできますが

黒船側はいついかなる時にも、いかなる場所にも好き
勝手に日本を攻撃することができます。

海上で黒船に対抗する能力は日本にはほとんどありません

海上交通はぼろぼろにされ
あちこちの村や町が砲撃されたり上陸されて略奪される
かもしれません

しかも敵は目の前に現れた4隻だけでなく、本国には
どれだけの戦力があるか分かりません

当時の日本人は黒船を見て、欧米と科学、軍事技術に
格段の差があること、そしてそれが意味することが
分かっていたから

日本を生まれ変わらせる(近代化)必要があると考えた
のだと思います

tho********さん

2015/12/1600:46:55

一応言っておきますが、
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)のペリー来航に於いて江戸幕府は全く慌てていません。

オランダ経由で一年も前から来航の情報はつかんでいましたし、来航後も国書の受け渡し以外の交渉は一切拒絶。
一年の後の回答を約束はしましたが、それ以外の成果はまったくありませんでした。

1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、つまり半年後にペリーは再び来航し幕府側を驚かせようとしましたが、いつの間にか浦賀に数多くの台場(海上砲台)が築かれておりペリー側の方が慌てるハメに陥っています。

ペリーは横浜村に上陸し初の日米交渉が行われましたが、ペリー側の希望はほとんど叶えられず、貿易はあくまで拒絶、航海必需品のみの交易を長崎・函館・伊豆の三カ所で許可、小笠原諸島の領土問題に於いても日本側の領有権が認められるといったかたちでほぼ幕府側の勝利だと言っても良い成果になっています。

マシュー・C・ペリーは日米和親条約こそ結べましたが、それ以外の外交交渉はほぼ敗北しました。
幕末日本が諸外国に外交的敗北を被るのは、これ以降のロシア・イギリス・フランス等の圧力や、初のアメリカ総領事タウンゼント・ハリスの長期戦によるものだと考えるべきでしょう。

glo********さん

2015/12/1600:45:55

当時の幕府が黒船を脅威と見た最大の理由は、江戸湾を封鎖されてしまったら水運に依存した江戸の経済が麻痺して、幕府の威信が地に落ちてしまうことでした。
江戸に運び込まれる食料の大半は、水運によるものだったので、黒船が本気で裏が水道を封鎖したら民衆が暴動を起こし、江戸は大混乱になったでしょう。

アヘン戦争でも圧倒的に数に勝る清がイギリスに屈服したのは、水上交通を抑えられて物流が止まってしまった事で経済が麻痺し、民衆の不満が高まった事でした。

それ故にその後の幕府は海防政策に力を入れる事になります。

現在でも世界最強の海軍力を有する米国が国際政治において絶大な発言力を有している事から分るように、海を抑えたものは圧倒的な優位を確保出来るのです。

jid********さん

2015/12/1600:15:29

徹底抗戦したら勝てたと思います
がしかし
江戸が戦場になってしまいます

つまり江戸を戦場にするか
開国を天秤にかけた結果だと思います

為政者であれば誰でも開国を取るでしょう
江戸城まで大砲が届きますしね

返信を取り消しますが
よろしいですか?

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漏らすほどびびったはずだよ、たぶんこれはこめかみに拳銃突き付けられたまま、交渉してるのと同じではないかと察します、いたしかたなかったと思います。順応したまたは順応性をもちあわせていた坂本がいたことがなんとか今につながつています。

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