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秀吉は上杉景勝に、越後に加えて会津を領有させれば良かったと思いませんか?

ich********さん

2016/1/2716:14:00

秀吉は上杉景勝に、越後に加えて会津を領有させれば良かったと思いませんか?

秀吉は、蒲生家の改易跡に上杉を移封しますが、これは徳川を背後から牽制する為だっと言われています。
しかし、どうせ牽制する為だったら、越後の旧領をそのままにして会津を加増する形にすれば良かったのではないでしょうか。
そうなれば、上杉の石高は210万石。徳川の250万石に匹敵する大勢力になり、仮に正史通り家康の上杉征伐がおこなわれていたとしても、上杉には家康が西にとって返すのを追撃できるだけの余裕があったんじゃないでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

kan********さん

2016/2/309:07:00

会津移封は、地理的に徳川家康や伊達政宗の抑えという役割は否定できませんが、それが主たる目的ではなく、ベースには、蒲生氏郷に任された奥羽統括を引き継ぐという役割がありました。加えて、上杉氏を中央集権的な大名に脱皮させるための手でもありました。

上杉氏を越後から切り離したのには、上杉家中の独立性の高い国衆出身の家臣たちを先祖以来の土地と切り離し、景勝から新しい知行を与えることが重要でした。景勝の領主権力を強力なものにするために必要な措置だったのです。

では他に土地をとなると、そうありません。上杉氏を二倍以上の石高にするだけの大義名文も土地もないのです。当時、上杉景勝は奉行衆と仲の良い大名だと認識されていますが、それでも上杉氏も元は中央と対立していた外様なので、あまりに肥大化させるのは危険です。上杉氏は謙信時代から関東や出羽に紛争を仲裁するなどの影響力を持っていたので、軍事力だけではなく「上杉」という看板も必要とされたのでしょう。

景勝や直江兼続が小山から引き揚げる徳川家康を追撃しなかったのは、背後が心配だったからだけではありません。家康撤退を確度の高い情報で把握した時には、家康は既に江戸に入って現実的にも「追撃」にはなりませんでした。さらに上杉側は関ヶ原で石田三成らが敗北した半月後でもまだ西軍優位を信じていました。最上攻めの際も直江は数日で最上が降伏すると認識しているくらい、余裕をかましていたのです。伊達ら奥羽の諸将をまとめてから関東に侵攻しても遅くないと考えていたということです。

質問した人からのコメント

2016/2/3 21:56:20

皆さん、ご意見ありがとうございました。
どなたのご意見も傾聴に値するものばかりでBAは悩みましたが、kanetan0102さんにさせて頂きます。

ベストアンサー以外の回答

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img********さん

2016/1/2816:19:52

>秀吉は、蒲生家の改易跡に上杉を移封しますが、これは徳川を背後から牽制する為だっと言われています

違います。

毛利家文書の秀吉朱印状には「家康を舅にまでして外聞も整えてやったのに、程なく知行の事、家老共が届けなかった」としています

ですから、上杉の会津移封は家康への牽制ではなく蒲生秀行が幼いため家中の統制が取れないためです

上杉の会津移封が家康への牽制でなく、東国統括であった家康の与力であった蒲生家の当主が幼いため色々理由づけして減封の上会津から移動させ、代わりに上杉を東国統括として会津に移封させたと思われます

家康は、秀吉が秀頼を伴って大坂城へ政権移動するときに一緒に大坂へ連れて行こうとしていたので(西笑承兌書状)東国統括が出来なくなるからです

しかし上杉には3年は上洛しなくていいと言っているので、名誉職を与えて中央政権への関与させなくしたとも言えます

何故なら東国統括として関東移封させた家康には、1年として領国に在中する事を許しておらず常にそば近くに置いていたからです



因みに、会津征伐は家康のいちゃもんではありません

年貢を持ち去られた挙句、秀吉朱印状違反の家臣を越後に置き去りにされた「堀家」から出た問題です

the********さん

2016/1/2812:28:02

それなら、直江兼続を秀吉の直属の武将に取り立て、上杉から独立した大名として、会津を与えた方が良いかと。

異例の加増に、少しはまともな理由がつくし、上杉主従の仲を割き、弱体化させ、牽制できるかもしれない。

cqw********さん

2016/1/2811:01:22

簡単に言うと、単純に上杉にポンと90万石与えるだけの
理由と土地がないだけです。
(転封とはいっても、旧領の佐渡、庄内約30万石の領有は認められてます
)

蒲生氏郷が死に、子供が幼いから宇都宮12万石に押し込め
約80万石分が浮いたことで、
転封に伴う陳謝分と徳川の監視名目含めて約30万石加増のうえ、上杉に
残りを蔵入地や越前から越後に転封してくる堀氏や配下大名に
分配しています。

f27********さん

2016/1/2723:37:20

そんなことをすれば上杉こそが豊臣の脅威となります
そもそも上杉に何の功があって加増するというのか?
日本には限られた土地しかないのです
その煽りを食う大名もいるでしょう
その不平は豊臣家へ向かうわけで、不安定要因を増やすだけだと思います

2016/1/2719:38:29

秀吉にとっては、徳川も、上杉も、伊達も、みんなおんなじ「警戒すべき外様大名」です。「先祖伝来の土地からひっぺがして、加増と称してなじみのない領地に移して苦労させる」ってのが基本戦略です。上杉が会津に移されたのは、徳川が関東に移されたのと、まったく同じ理由です。
秀吉が、家康を抑えこむにはどうしたらいいか、ってばっかり考えて、上杉にその「任務」を期待してた、なんてことは、ありません。
だいたい、上杉だって210万石も貰ったら、自分が天下狙いますよ。秀吉の息子に何の義理もないのは、家康と同じですから。
秀吉がエスパーか、さもなくば現代の高校日本史の教科書をたまたま入手するか、でなければ、自分の死後に家臣団がどういうふうに分裂するかなんて、予測できません。
関ヶ原のときに上杉が徳川の対抗馬になってたのも「たまたま」、会津にいたのも「たまたま」で、秀吉がなんか布石を打ってた(または打ちそこなった)みたいなものではありません。

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