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不滅の9連覇を果たした巨人・川上哲治監督の言葉で、大学4年生の右腕投手は巨人からドラフト1位指名を受けながら入団を断る決意が固まったという。 投手の名前は小林秀一。 ドラフト史上ただ一人、巨人の1位指名を蹴った男は、愛知学院大のエースとして全日本大学選手権に出場。 シュートとスライダーを駆使し、チームを準優勝に導いたアンダーハンドだった。 小林の夢はプロではなかった。 将来は教員になって、アマ野球の指導者になりたかった。 ノンプロの熊谷組に就職し、野球を続けようとしたのもいずれ指導者になった時のために、アマの世界を広く知るための通過点だった。 ドラフト当日は、郷里・熊本の母校八代第一高(現、秀岳館高)で教育実習中。 指名されたときには世界史の授業のため、教壇に立っていた。 ジャイアンツ1位指名を知ったのは、授業が終わり職員室に戻ってからのこと。 父からの電話だった。 「なぜオレが巨人に…」というのが最初の感想だった。 たしかにプロ3球団ほどから打診はあった。 しかし、巨人からはあいさつもなければ、電話すら一本もなかった。 天下の巨人軍の1位指名なら、誰でも感激して入団する--。 そんな考えが見え隠れし、あまりいい気分はしなかった。 それでも心は揺れた。 アマの指導者になりたい気持ちに変わりはないが、プロ野球の1位指名。 しかも巨人である。 川上監督は同じ熊本の出身。 プロに行っても面白いかも…と考えないわけではなかった。 煮え切らない本人をよそに、地元では気の早い知人らが後援会立ち上げの準備を始めるなどちょっとした騒動にまでなっていた。 いよいよ川上監督自ら名古屋の大学に乗り込んで入団の説得に入った。 川上はこう言った。 「巨人は君の野球技術を買って1位指名した。ノンプロで野球を続けるんだったら、プロでやるのが本筋というものだろう。 熊谷組に入れば君は会社の仕事もしなくてはならない。かといって会社は君に他の社員と同じような仕事ができると期待してもいない。野球部員として入社するのだから。 だったらプロで真剣に野球に取り組むべきだ」 この言葉で小林は逆に原点に立ち戻った。 「野球オンリーではない生き方を自分は選んだはずだ。ならば、野球を本職にしてはいけないと…」 結局、小林は巨人に入団しなかった。 初心を貫き、熊谷組に進み、その後母校愛知学院大で野球部監督に就任した。 本職は同大学の助教授(准教授)。 野球だけで生計を立てているわけではなかった。 91年秋の明治神宮野球大会で愛知学院大は全国の強豪大学を倒し優勝。 大学野球界の頂点に立った。 巨人への入団を拒否してから18年の歳月が流れていた。 事前にあいさつもなかったように、巨人の小林指名は実は窮余の策だった。 当時は指名できる順番をくじ引きによって決めていたが、巨人は前年の11番目と同様、くじ運に恵まれず73年も10番目。 巨人は当時2人の選手に照準を定めていたが、10番くじではかなり厳しい状況だった。 そのうちの1人、「巨人なら万々歳。でも在京球団ならOK」としていた東京六大学のプリンス、慶応大の山下大輔遊撃手が1番くじの大洋に指名され、“意中の恋人”は残り1人。南海、近鉄、日本ハム、中日と過ぎてその人の名前はコールされなかったが、6番目の阪急が果敢に攻めてきた。 「江川卓、18歳、投手、作新学院高校」。 甲子園で“怪物”と呼ばれた江川は当初から、慶応進学を打ち出しプロ拒否の姿勢だったが「巨人ならプロ入り」という情報をキャッチしており、巨人としては自信を持ってドラフトに臨んでいた。 ただ、怖かったのはダメもとで体当たりしてくる球団が出てくることだったが、悪い予感は的中。 現在のように重複した場合は抽選という制度もなく、巨人は江川をあきらめざるを得なかった。 そこで浮上したのが、大学選手権で武宮敏明スカウト部長が目の当たりにした小林の快投。 緩急を使い、優勝候補の早稲田大を準々決勝で5安打完封した際の投球が頭の中に残っていた。 投手補強を目標にしていた巨人は、これといって他に欲しい選手もなく、それならばというで小林を指名。 しかし、調査不足を露呈することになり、一大学生にひじ鉄を食らうことになった。 担当スカウトら編成の関係者は減俸処分を受けた。 小林が巨人に入っていたらどうなっていたか。それは分からない。 ただ、巨人1位のご利益は相当なもので「監督は巨人に1位指名された投手だった、という看板で野球部の学生は割りと言うことをよく聞く」とか。 良くも悪くも巨人軍の存在というのは大きい。
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