徳川家康が前田利家と同じくらいに亡くなって いたら、誰が天下を取ったと思いますか? 家康の子の秀忠とかじゃ器的にきついし。 やはり黒田孝高(如水)や伊達政宗でしょうか?

徳川家康が前田利家と同じくらいに亡くなって いたら、誰が天下を取ったと思いますか? 家康の子の秀忠とかじゃ器的にきついし。 やはり黒田孝高(如水)や伊達政宗でしょうか?

日本史 | 歴史3,108閲覧

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黒田如水の石高(18万石)は秀吉与力出身者としては蜂須賀小六に次ぐものですが、徳川家はもちろん毛利家などと比べても小さなものでとても天下をうかがうようなものではありません。 伊達政宗も東北からでは天下をうかがうのはまず無理です。 そうすると家康や利家がいなくなれば、しばらくは表向き豊臣秀頼をトップとした有力大名による集団指導体制が続く事になります。 しかしこのような体制を安定させるのは難しいため、最終的には豊臣家はお飾りとなり最大勢力の徳川の天下へとゆっくり移っていくのではないでしょうか。

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もし、徳川家康が前田利家と同日、慶長4年(1599年)閏3月 3日に死んだら。 当時の情勢をふまえながら検証してみます。 まず考えるのは、家康が死んだ後の徳川家です。 実は徳川家は、豊臣家にも劣らぬほど男子に恵まれていません でした。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13107553398 次男秀康、四男忠吉、五男信吉はやがて1607年までに病死して しまいますので、そうなると1599年時点で 三男・徳川秀忠 20歳 六男・松平忠輝 10歳 しか居ませんでした。史実の通り、家康死去後は既に中納言で あった秀忠が徳川家を継いだでしょうが、当時秀忠は初陣すら 経験していない若年で、その若輩さを心配してか、1598年の 秀吉死去時の混乱時に家康は即日秀忠を伏見から江戸に帰して、 いたほどでした。 その意味で、実史で家康が立ち回った政略的活躍を秀忠に望む ことは全く出来ず、当時すでに37歳だった前田家嫡男利長より も、徳川家の政略的影響力は大きく失墜した可能性が高いです。 (その当時の秀忠書状をみても、丁寧で誠実な好青年といった 文面が多く、やはり若すぎた印象が強いです) 次に注目されるのは、当時の豊臣政権の序列です。 ご存知のとおり1598年秀吉死去後の豊臣政権は、五大老五奉行 制によって政務を執行していました。この五大老のうち2巨頭 が前田・徳川家でありその両家で当主相続となるので、五大老 のバランスも当然変わり、5人合議の色が強くなったことで しょう。 これに対して五奉行は相対的な政略力を強めるはずですが、 次に示す政敵の存在などから大きな困難を抱える事になります。 最後に注目すべきは、当時の政治的事件です。 ご存知のとおり、慶長4年1599年閏3月3日の夜に、武断派 七将による三成襲撃という大事件が起きます。実史では一事件 のように扱われますが、豊臣政権としてはこれは大事件という べき暴挙でした。 五大老でも五奉行でもない20万石以下の中大名(しかも豊臣 恩顧!)が結託して、大坂城下において豊臣政権の重要ポスト の三成を襲撃したのです。これは政権そのものを否定する暴挙 と言えて、これを放置容認することは豊臣政権のクーデター にもなりかねない大事件でした。 三成は大坂屋敷から伏見城の治部少輔曲輪へと立て籠もり、 七将の軍勢も伏見城を包囲する軍事的衝突に近づき、実史の ような家康介入が無かった場合、豊臣政権中枢の伏見城を 豊臣恩顧大名が攻囲するという、惣無事令もクソもないような 一大事態に発展したでしょう。 実史では七将寄りの家康によって裁断されましたが、家康亡き 世界では毛利・上杉・宇喜多家のような五大老格しかこれを 抑制できず、伏見攻囲の「仕置」は混迷を極めたでしょう。 こうなると、五大老五奉行の豊臣政権自体が権威を低めて、 各地の大名の個人行動を抑えることが出来なくなるでしょう。 この時点で全国には、 ・熊本清正と宇土小西、 ・金沢前田と小松丹羽、 ・宇喜多家内紛、 ・会津上杉と越後堀、 ・仙台伊達と上杉旧伊達領、 ・島津家内の都城庄内の乱、 などなど地域紛争のタネは幾らでもありました。 実史での庄内の乱への家康介入のような政軍込みの介入は豊臣 政権では取ることができず、畿内に豊臣家という権威を抱えた まま、日本全土で事実上の戦国時代が再来する事態になるのは 確実だと思います。 ご質問の「誰がその後の天下を取ったか」ですが、私はやはり 10年20年後の徳川秀忠だったと思います。 しかしそれまでには伊達・毛利・島津・前田などの勢力がより 大きくなっていた可能性が高く、徳川幕府はより脆弱な存在と して成立したことでしょう。

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さて、当時の関白は誰ですか? 答え:秀頼の大叔父である近衛前久 近衛前久は朝廷の大ボスです。 正親町天皇、信長、秀吉に従い 武力こそ持たないものの経験豊富で 政治家としては超一流の公卿です。 一方の豊臣秀頼は、豊臣家を継いで 武力と領地を相続したけど 政治経験がない…まだ6歳だし… つまり、何が言いたいかというと 幼少の豊臣秀頼の後見人に 関白・近衛前久を迎え入れて 秀頼が成人して経験を積むまでは 近衛前久に政権を代行してもらう そうすれば、豊臣の天下は続いてた 可能性が高いです。 いかに徳川を初めとする大名諸将も 朝敵になるのは避けるだろうし 朝廷を代表する超大物の近衛前久に 武力で攻めたりしないでしょう。 ちなみに、外様の無官だった家康に 徳川姓と三河守を与えるよう 天皇に進言したのも近衛前久です。

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当然豊臣秀頼は健在なんで、いったんは豊臣親政に落ち着きます。石田三成も健在ですし。 ただ本田正信ほかのブレーンが徳川方の巻き返しを狙うはずなので、遠からず戦国時代に逆戻りしますね。石田三成憎しの大名武将も数多おりますので。 そうなると群雄割拠となり、徳川・島津・伊達・黒田・毛利・上杉・宇喜多といった大大名がどんな離合集散を図ってどんな勢力を構築するかですね。難しいのが伊達。利家死去時に徳川と縁戚になってるものの、かの政宗が天下に覇を唱えるのを諦めるとは考えにくい。かといって目と鼻に上杉がいる。史実の関ヶ原役時でも事実上日和ってましたし。 福島正則や加藤清正も振り上げた拳をいかに収めるか。家康がいなけりゃ暴発は避けられない、しかし周囲がそれを許さない。島津も列島の果てでは動きようがない。 個人的には普通に考えたら黒田が暗躍しそう、と思うでしょうが、案外前田利長あたりの不用意な動きが戦端を開きそうと思ってます。利家を喪っても大大名ですし、石田三成の根拠地も近く、それでいて家中も不穏なので。

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天下人秀吉がまだ元気だったころの逸話に、夜話で夜伽衆を相手に、秀吉が仮にわし(秀吉)亡き後、だれが天下を取ると思うか、と皆に問うたところ、それぞれの者から、家康や、蒲生氏政などの名前が挙がったという。そこで秀吉が云うには、あのチンバ(足の少し不自由)の官兵衛よ、と黒田官兵衛の名前を出したという。秀吉は、官兵衛の武将の器量、才覚などを、見抜いており、故に、彼の豊臣家(秀吉)への功績・貢献度を考慮すれば、もっと恩賞(所領)を授けてもよかったはずだが、豊臣家の簒奪(さんだつ)を警戒した秀吉は、都から遠く離れた九州の地豊後(大分)に十八万石を定めたという。

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ワシは、戦国時代に逆戻りするように思う。 封建政治を束ねるには、カリスマ性のある人物による体制作りの完成が必要じゃ。 豊臣政権は、秀吉のための政権で、治国の見通しのない行き当たり感が強すぎる。 だからこそ、史実では関ヶ原の戦いが起きたのじゃから。 また、文治派と武断派の対立は避けられず、利家や家康のようなストッパー役や糾合役がいなくなることで、私闘騒乱状態になる。 そうなると、北は伊達や上杉、西は毛利や島津など、豊臣家に屈服させられた組が独自に動き出すと思われる。 誰が覇を制するかは分からぬが、豊臣子飼いの武将ではないように思う。