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日本書紀・古事記の天皇の御子たちについて 紀や記に載っているずいぶん昔の...

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ID非公開さん

2016/5/2414:27:12

日本書紀・古事記の天皇の御子たちについて


紀や記に載っているずいぶん昔の天皇は
皇后や妃が四方に居て子孫繁栄のため子沢山だなとおもっているのですが・・・
(景行天皇は御子81人!?



これらはのなんらかのルールがあるのでしょうか?


時期、天皇候補となる皇太子(立太子)に選ばれると
四方にお抱えの女性と関係をもつのですか?

それとも時期候補に選ばれる前から何人かすでにおられるのか

はたまた即位してから四方に妃を迎え子供をなすのでしょうか?
(即位してからではもうよいお年だと思うのでそれはないと思いますが・・・)

詳しいかたのご回答お待ちしております。

宜しくお願いします。

補足回答ありがとうございます!
ちなみに次期天皇候補である皇太子(立太子)に選ばれる年齢には決まりがあるのですか?

例えば皇子が何人か居て、みんな年齢がバラバラだったら
天皇の気が向いたときに皇子たちを呼んで

皇太子はお前ー!!

みたいな感じですか?

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cel********さん

2016/5/3123:14:54

>これらはのなんらかのルールがあるのでしょうか?

ルールというのが皇太子を選ぶルールの話をされているのか、嫁取り」のルールの話なのか、が直ぐにはわかりませんが…

まず先に、天皇家に限らず一般論で申し上げると…

古代日本の夫婦生活は、日本書紀などの歴史書ではほぼ触れられないといってよいぐらいだし、平安時代の貴族が残した日記も、朝廷での行事などの『公務』に関する備忘録の性格が強く、それでもわからないのですが、蜻蛉日記や更級日記といった貴族の女性が日記を残した時代については、かなりわかるようになります。

それからわかるのは、少なくとも平安時代の貴族の中では「夫が妻の家に通う」形態が元々のものだった、という事です。現代の結婚は、結婚して夫婦が独立した生活を営むか、夫の実家に同居するか、妻の実家に同居するか、のどれかになり、妻の実家に同居するケースを「婿入り」と呼びますが、平安時代の貴族の元来の形は、『夫が妻の家にずっと住む』のではなく、『夫は本拠は別のところ(基本的には自分の母がいて育った家)に持ち、妻のところに通う』形でした。(出たり入ったりする婿入りのようなもの)
複数の妻を持つ夫は、ある時は本拠(自分の母がいる家)で過ごし、ある時はある妻の家に滞在し、またある時は別の妻のところに滞在し…、と言った事を繰り返す事になります。そして、生まれた子供は、それぞれの母によって育てられ、結婚適齢になると、母に育てられた家を本拠にして、複数の妻の家を回って…、と言う繰り返しになります。(財産は、生まれた家を引き継いだ男性から、自分の姉妹の息子、つまり甥に引き継がれる事になる)

こういう状態だと、ある夫の複数の妻の中で誰が正妻だとか、その夫を父とし複数の妻達=子供から見れば母達の息子の中で誰が当主の座を引き継ぐか、といった事が明確になりません。それぞれの妻の家は経済的に独立しており、財産もそれぞれの妻の家毎に引き継がれていくからです。

天皇の場合は、さすがに複数の妻の家を渡り歩く、って訳にはいかず、内裏の中にそれぞれの妻が住む区画が設けられましたが、概念としては、「複数の妻の住まいを、夫である天皇が渡り歩く」というものでした。

これは、平安時代の話ですが、「夫の本拠に妻が同居する」形の方があとにできたものなので、時代を遡っても、「夫が複数の住まいを渡り歩く」という傾向が強まりこそすれ弱まる事は考えられません。

というわけで、ある時点までは、天皇家(実際には、天皇家に限らず貴族も地方の有力者も同じだったでしょうが)では、妃のうち誰が正妻かという概念もないし、天皇の息子の中で誰が一番上位か、という概念もありませんでした。
但し、皇族出身の妻及び蘇我氏とか葛城氏といった地名を姓とする氏族=ずっと遡れば天皇家とほぼ同格の、一定の地域の支配権を持っていた氏族=出身の妻と、大伴氏や物部氏のような一定の職能をもって天皇に仕えていた氏族出身の妻及び地方豪族が”献上”した妻との差は明確にあり、皇位継承権は皇族出身の妻もしくは地名を姓名とする氏族=”巨”というカバネを持つ氏族出身の妻が生んだ子にほぼ限られました。皇族もしくは巨というカバネを持つ氏族出身の妻の息子であれば、天皇の弟でも天皇の子でも皇位継承権はあり、その中で明確な順位もなかったので、「皇太子」という概念もありませんでした。

実際、推古天皇が死んだあと、田村皇子と山背大兄王が有力候補になり、(かなり曖昧ではあったものの、推古天皇が天皇にしたかったと思わせる発言を生前にしていた)田村皇子が即位して舒明天皇になりましたが、田村皇子を押す蘇我蝦夷と、山背大兄王を押す(蝦夷から見たら叔父に当たる)蘇我境部臣摩理勢が対立し、結局摩理勢は蝦夷によって攻め殺されています。
これは、天皇の生前に皇位継承者が明確になっていなかったから起きた事です。
つまり、皇太子はおらず、天皇が死んだ時に、皇位継承権を持つ皇族の中で皇族や貴族の支持が強い者が、うまくいけば話し合いで、時には武力も使って、天皇の位を得ていた、という事になります。
皇位継承のルールが史料に初めて現れるのは、8世紀初めの元明天皇即位の時の、天智天皇が定めたという「不改常典」で、その内容ははっきりせず、そもそも天智天皇が本当にルールを定めたかどうかも断定はできないのですが、どちらにしろ、天智天皇以前には皇位継承のルールがなかったのは間違いないです。

というわけで、

>皇子が何人か居て、みんな年齢がバラバラだったら
>天皇の気が向いたときに皇子たちを呼んで

>皇太子はお前ー!!

>みたいな感じですか?

天智天皇以前には皇太子という制度自体がなかったので、そういう局面もありませんでした。

>次期天皇候補である皇太子(立太子)に選ばれる年齢には決まりがあるのですか?

皇太子の制度が出来て以降は、年齢に特に決まりはありませんでした。

>天皇候補となる皇太子(立太子)に選ばれると
>四方にお抱えの女性と関係をもつのですか?

皇太子の制度が出来る前は、皇子は自分が天皇になるのかどうかはわかりませんから、それとはなんの関係もなく、適齢期になったら妻を選んでいました。
皇太子の制度が出来た後も、皇太子になるならないに関係なく、適齢期になったら妻を選んでいました。

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zev********さん

2016/5/2809:57:45

特にルールはありません。

ただ、昔は一夫多妻制だっただけです。

後継者選定についても、母親の身分が考慮される場合がほとんどだと思います。




あと、フィクションがどうのこうの、という回答がありますが。

政治の現場では、史実や端的な事実よりも「公的な事実」が優先されます。
なぜならば、政治とは歴史学の成果を具現化するためのものではないからです。

この場合の公的な事実とは、初代天皇は男性の神武天皇だということです。

これは皇統譜(こうとうふ)という、宮内庁および法務省で管理する公文書に明記されたことです。
それら皇族のことも、皇統譜に載っています。

公文書ですから、その内容の変更には法的手続きが必要です。
具体的には、首相の政治判断が必要となります。

これは、90年代の非自民連立政権や、しばらく前の民主党政権ですら、変えようとはしなかったことです。


なので。
歴史学上の見解がどうあれ、政治上では「神武天皇と、以降の天皇皇族は存在した」というあつかいなのです。


だから、歴史学上の通説などがどうあろうとも、皇室と政府がそれを大々的に公認しないかぎり、政治上では意味がありません。



歴史と政治は別物だということを、くれぐれもお忘れなきよう。

you********さん

2016/5/2415:25:03

別に天皇家や古代に限らず江戸以前は複数の妻(または妾)を持つのは珍しくないです。
例えば徳川家斉も50人以上子供を作ってます。
細かいルールはあるでしょうけど、皇太子だから特別に複数の妻を持てるというようなものではありません。

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tan********さん

2016/5/2415:24:01

関係者を天皇の親戚にするには、子沢山にしないと辻褄があわないから

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