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福音および新約聖書および旧約聖書およびキリスト教に 悪人正機の考えはあります...

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ntf0qrcncさん

2016/6/2301:30:54

福音および新約聖書および旧約聖書およびキリスト教に
悪人正機の考えはありますか。

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ベストアンサーに選ばれた回答

2016/6/2310:33:05

悪人正機説は親鸞の教えであって、聖書の教えではありません。

似たような教えはあっても、よく見れば似て非なるものです。姿形が似ていても、イルカが魚類ではないのと同じです。

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秀行學さん

2016/6/2605:26:28

マタイによる福音書
5:3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。=悪人正機説

自分の心は貧しい、悪であると気付いて反省に生きる者は、鏡(神と我を見比べて考えと行動を選択する)の教えを知る者である

GOD=未与辺、神(自分)の子である人間が彼岸にわたる(天国に蘇る)夢に働く。人間を胸(月の匈=南無の苦労の陰間=ブレス)に抱いて親のそだての愛の本願(ブレッシング、祝福=妙法蓮華経)を発揮しておられる。=陰間縫得る、インマヌエル=イエスキリスト

漢字、地理、歴史、一切神の声、最後の学問「秀思學」のすすめ

正=天から下されたものを受け止める=神と人の阿運(神道)、アメン(基教)、あみんあもん(仏教)のキャッチボール、二人三脚で」天国に駆け上る

マタイによる福音書
5:3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。=悪人正機説...

osh********さん

2016/6/2311:28:05

パウロ思想と悪人正機は似ているといわれているが、根本的に違います。

聖書学者の 上村 静氏がキリスト教の信仰義人を的確に批判していますので引用しておきます。

旧約聖書と新約聖書 p256
「今日パウロ神学で評価しうる点は、仏教用語でいう他力本願という思想に指がかかった所にある。指がかかったということは、それを貫徹できていないという ことである。「律法の業による義」を否定しつつも、律法なしで、律法のーーあるいはヘレニズム・ユダヤ今日のー倫理規定を完全に守ることを要求してしま う。こうして「罪の許し」を宣伝しているキリスト教は、信者の「罪」は決して許さないし、信者に名らないものも決して許さないことになる。」上村 静 - 尚絅学院大学准教授



キリスト教の信仰義人はキリスト教徒は義人でそれ以外の異教徒は神のい怒りを受けた罪人で地獄行という善悪二元論です。

さらに、パウロは義人であるはずのキリスト教徒に対しても、パウロの原罪論
(ローマ書簡5:12)
女性蔑視(コリント14章34~36節)、男は女に触らないほうが良い(コリント7)・同性愛はだめ(ローマ1:27)、社会階級に従えローマ書 13:1 、奴隷は奴隷のままで(コロサイ書の3:22)、・・・・等々のお倫理的抑圧があり、自他ともに苦しめる結果になってきました。

キリスト教パウロの思想と人権侵害
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n373154

参考
ローマ5:6-11)御子を信じない者、御子を救い主として受け入れない者は怒りの日に裁かれるのです。

●パウロが、自分の手であいさつを書きます。主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。。
ーーーーーーーーーー
パウロは人間の義人と罪人の基準をキリスト教信者であるか、未信者であるかにしてしまった。

パウロのキリスト教の救済には自我の死を恐れ「永遠の命」望むという究極のエゴイズムがその根底にある。

「信者・未信者を基準に義人と罪人に二分する善悪二元論は、自他を抑圧する」暴力とった。

キリスト教の歴史上の暴力は、特定の人々の恣意的なものではない。

「永遠の生命の獲得=キリスト教の救済論
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一方親鸞は、自らを義人とはしません愚徳親鸞でありあくまで悪人正気説です。

歎異抄という本にこうあります。
絶対他力が徹底されています。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、
いかにいわんや善人をや。
この条、一旦そのいわれあるににたれども、
本願他力の意趣にそむけり。
そのゆえは、自力作善のひとは、
ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力のこころをひるがえして、
他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。 」

自分の力で善行を積み上げて仏に成ろうと努力して、なんとかできると信じている人は、ひたすらに他力(阿弥陀仏の働き)にお任せするという、心が欠けているので、阿弥陀仏の願いに添うものではありません。


自我の欲求としての「悟り=往生=成仏」への努力は、所詮そこに自我エゴの欲求が介入したもので、かえってエゴを強化するという思想が見える。

suy********さん

2016/6/2304:10:44

確かに似た考え方はありますが、
そこにキリストがいまし給うか否かは
やはり決定的な違いではないかと思います。

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