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釈迦(仏陀)は、因果論を含めると、決定論者になりますか?

捨てる神あれば拾う神ありさん

2016/9/2922:39:57

釈迦(仏陀)は、因果論を含めると、決定論者になりますか?

補足人が物理法則で動いているのなら、脳(心も)もそう動いているに決まっている。
つまり、脳の動きでさえ、原因があり、一つの結果がある。
脳も規則やルールの上で成り立っているはずだ。

ただ、それは複雑でわからないだけで、複数の原因があって、一つの結果が導かれるとするのなら、それは”決まっている”と言ってもいいのでは?
わからないだけで。

「人の行動に、因果関係がない」方が、私には、不思議に思えるんですが?

行動に因果関係がなかったら、人なんて、今以上に信用できませんよ。

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cel********さん

2016/10/300:28:51

こんにちは。

話の都合上、補足にある「人が物理法則で動いているのなら、脳(心も)もそう動いているに決まっている(中略)それは”決まっている”と言ってもいいのでは? わからないだけで。」の方から行きます。
頭の中の理屈としてはそういう考え方は成り立つと思います。そして、体も物理法則で動いていますから、思考も行動も”決まっている”という事になるのでしょう。(そういう考え方に沿えば…)
人間の考え方は、環境やその結果としての経験によって影響を受けます。例えば、大地震に遭遇する事は、その後の考え方に大きく影響するでしょう。が、大地震も物理法則に従って起きるものでしょうから、複雑でわからないだけで複数の原因が何月何日何時にどこで震度いくつの地震が発生する、という結果が導かれる、という点では全く同じです。だから、自然現象だろうが人間を含む動植物の動きだろうが人間の動きだろうが、物理法則に従って動いていると考えられる事には全て因果関係があり、よって予め“決まっている”、そのように言う事は出来ると思います。
逆に言えば、人が「偶然」と呼ぶのは、因果関係がわからないだけに過ぎない、とも考えられますね。

masakadotvさんがそのように考えられるのは全く自由です。が、それが一般的な考え方かといったら、そうではないでしょう。偶然とかby chanceとか言った言葉がある事自体、(厳密に言えば、因果関係がわからないだけなのかも知れないが)因果関係がない(としか思えないような)出来事もある、という一般的な考え方の存在を示しています。
勝手に思うに、人間は日々自ら判断を下し、複数の選択肢の中から何事かを選んでいる為、厳密に言えばそれが物理法則に従って起きた“決まった”事であったとしても、そういう感覚がもてない、という事があるかと思います。例えば、masakatotvさんがこのサイトで質問している事も、masakadotvさんが補足に書いたような決定論からすれば、予め決まっている事、って事になります。そして、私や他の方が何を書き込むか、それを読んだmasakatotvさんが何を考えるか、も全部決まっている事になります。これは聞こうが聞くまいが結果は同じ、って事じゃなく、masakatotvさんが何かを聞こうと思いつく事、それ自身すら予め決まっている、という意味です。masakatotvさんの論理からすれば、こういう事になりますね。が、一般的には、そういう「決定論」は頭の体操としてはあるかも知れませんが、それが基本原理と思っている人はまずいないでしょうね。「自分が何かを考え判断を下しそれに基づいて行動している」という認識の方がリアルでしょうから。

さて・・・

釈迦は、因果論を含めても、決定論者にはなりませんね。智慧や修行によって、煩悩を断ち切る事で悟りに達し、一切の苦から解放され、涅槃の境地に達する事が出来る、と考え、その真理を伝えようとしたのが釈迦の教えそのものだからです。決定されていないから、釈迦は他人に教える価値がある、と考えた、って事です。
因果論というのは、善い“業”は善い“果”の「因」であり、悪い“業”は悪い“果”の「因」である、という考え方ですが、善い果の状態、例えば人間として生まれている状態において、何をするかはその人間が選ぶものであり(言い換えれば、決定されておらず)、だからこそ、その人間には「輪廻から脱して涅槃の境地に達する」為の努力をする意味がある、という概念が釈迦の教えの根本に含まれているのは間違いないです。でなきゃ、「こうすれば涅槃の境地に達する事が出来る」なんて教える意味が無いし、釈迦以降の仏教とも釈迦の教えを知る事で自分を変えうる、と考えたからこそ釈迦の教えを学ぼうとしています。

という訳で、釈迦は決定論者ではないです。別の切り口からは、仏教における因果論は(masakadotvさんが補足に書かれたような)人間の意志や思考も含めた決定論と、一般的な意味での因果関係のどちらに分類できるか、といったら、分類としては一般的な意味に入る、とも言えるでしょう。

勿論、仏教に分類される信仰の全てを私が知っている訳ではないので、一般的には、とか、私の知る限りでは、とかいった留保は念の為つけさせて頂きます。ただ、釈迦はどう考えても決定論者じゃないでしょう。

(参考)

>「人の行動に、因果関係がない」方が、私には、不思議に思えるんですが?
>行動に因果関係がなかったら、人なんて、今以上に信用できませんよ。

(少なくとも、因果関係が認識できるものについては)人の行動に因果関係はある、とか、善い“業”は善い“果”の”因”である、とかは、masakadotvさんが補足に入れたような決定論ではなく、一般的に使われる「因果関係」の意味です。、ありとあらゆる人の行動に因果関係が無い、という意味ではありません。従って、一般的な意味での因果関係が感じられる限り、「行動に因果関係がなかったら、人なんて、今以上に信用できません」という事はおきません。「因果関係がわかるものとわからないものがある=全てにおいて因果関係がある(見える)とは限らないが無い(見えない)とも限らない」という事と、「因果関係がさっぱり見えなくて人が信用できない」というのは、全く別物です。

  • 2016/10/321:06:10

    >決定されていないから、釈迦は他人に教える価値がある、と考えた、って事です。

    釈迦自体がファクターになることで、人の行動が、決定論的に変わると思ったのでは?

    釈迦の行動自体が決定論の結果なのか?は、釈迦は仏や菩薩(超常的な存在)なので、さておきまして、釈迦という原因から発生した、人々の救いという決定論的な行動や、結果は、起こりえるかと。

    例え、決定論だとしても、自分や他者にとって、よりよい行動を起こさない理由にはならないので。
    結果は決定しているかもしれないが、その過程や結果を知るすべが、我々にはないので。

    まぁ、決定論は一般論には受け入れがたいみたいですが、物理学のヒモ理論とかも、知識がない私には、荒唐無稽に聞こえます。

    でも、そう考えると、納得できることも多いとも聞きます。
    世界がヒモ(十次元のヒモ?振動)でできてる?ばかじゃねーの?って、人にはなりたくないなー、と思っています。

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質問した人からのコメント

2016/10/6 21:32:52

近寄っては見たものの、やはり、お互いに理解されない溝はありますよね。
私も、それが仏教だというつもりはありません。
釈迦は、古い人であり、周りの環境の影響もありますし。
釈迦は最後まで、男女平等とは思わなかったのは、釈迦のせいではなく、時代背景が大きく係るでしょうし。

とはいえ、色々と考えて頂き、ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

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hariharaさん

2016/10/110:20:47

釈迦は外部的な要因(含 生まれつきの性格)では決定論的な立場だったようですが、自由意思を認めています。

また、自由意思によって因果の流れに影響が出ることも認めていたようです。

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zys********さん

2016/9/3020:34:16

決定論の主体者はだれですか?

一神教であればキリストやムハンマドでしょう。
しかし仏陀は神ではありません。
ではその決定は誰が行うのですか?
主体者はだれですか?

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ino********さん

2016/9/3019:33:38

釈尊の説かれた因縁果の法則を厳密に考えれば決定論にたどり着かざるを得ません。
例えば、目にゴミが入ったことを考えてみると、やはり入るべくして入った言わざるを得ません。時間を遡ったところから、例えば1時間前から双方の軌跡を考えたらそのゴミが目に入る確率は計算不能、0%と言ってもいいでしょう。
しかし、条件が整えば双方が出会うことも有りうるわけです。

目に入ったということは、あり得たのです。あってしまったのです。あってしまったことは決して偶然ではありません。必然の結果なのです。

ただ、必然の結果がもたらされるには、無数の因縁によるものです。宇宙全体を変数ということになります。
貴殿が生まれてこられたのも、宇宙全体の力、働きによるものです。必然の結果です。

電磁力と重力の影響範囲は、無限大だということを知れば私の回答の意味をご理解いただけるでしょう。

釈尊の因果律は、アバウトで決定論にはなり得ません。
十二因縁にしても、ちょっとしたアクシデントが入り込めばたちまち崩れてしまいます。

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sat********さん

2016/9/3011:27:33

ブッタが決定論者とは私は理解していません、


私自身の仏教(仏陀)の因果論の理解は

今の自分や世の中の置かれた状況から過去の意義を知り、未来に正しく活かす事を知り、実践行為として活かす事

これが因果の二法(原因と結果)として説いたと理解しています。

つまり、活かす教えとして使わなければ、仏教(仏陀の教え)にはならないと考えます。

ただ 原因と言っても結果が無ければ原因とは言えませんし、結果は必ず何らかの原因や条件が伴わなければ現れません、すなわち原因も結果も単独では成立しない概念です。

御質問の補足に
『それは複雑でわからないだけで、複数の原因があって、一つの結果が導かれるとするのなら、それは”決まっている”と言ってもいいのでは?』
と ありました、ある意味真実だと思いますが、善いように変えようとする自らの意思(人類の意思)が働かないかぎり因の現在が果の未来は変えられないし自分自身も変わらない(変わらない)と私は思います。

ブッタは対機説法で良いように 法を説いたと言われています。その行為を大事に自らに良いように、仏教を活かす事が大切ではないでしょうか?

人の行動に、因果関係がない わけはありません、科学を善い様に使えは活かせますが、悪いように使えば、殺人兵器として使えます。どう使うかは使う者の意思によって結果が違うだけと理解しています。

決定論として因果論をどう使うかは自由だと思いますが、ブッタはそれぞれの人に良いように使ったと私は理解しています。

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cat********さん

2016/9/3010:39:17

お釈迦様が説かれた教えの基本中の基本になる考え方の根底には、「益があるか?」という視点があります。

因果はものごとの道理ではありますが、宿命やら運命を論として説くことには益が無いので、お釈迦さまは「運命論主義者・宿命論主義者であったアージヴィカ教徒の考え方を斥けた」のです。

宿命論・運命論に囚われることは、今・現在をより良く生きるためには役に立ちません。

同様に、空の考え方も役に立てなければ意味は無いのです。

北伝仏教圏では、空思想偏重により、刹那主義的になったり虚無的態度が悟りかのように勘違いした僧も居るようです。

誤解を恐れずに言えば、全てのことがらが因果により決定されている、そして全ては空である、ということに執着すれば人生はつまらないものになるでしょう。

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