街宣右翼なんぞ、右翼と認めておりません。私から見ればやっている事が暴走族の延長線上でヤクザの隠れ蓑や資金源とかしか思いません。それに余りにも歴史認識や知識が無さ過ぎてマトモな議論や会談する事も出来ません。所詮、任侠右翼のトップに頼まれ、講師で呼ばれて講演して持て囃されて終わりです。
講義中もマトモに筆を取るモノもおりません。彼らは「朝鮮人、中国人を追い出せ!糾弾しろ!日教組を壊滅させろ!」の言葉で動く単純な人間達が殆どです。事情も分からずに・・・
元々今の街宣右翼の誕生は、戦後の右翼世界の一方の雄、三浦義一が亡くなり、児玉誉士夫の双肩に右翼陣営の期待が集まり、それと同時に岸内閣の60年安保改定を前に窮地に陥っており、国会周辺は全国から集まった、労働者、学生の大規模なデモが連日押しかけ、国内は騒然として革命前夜の様相を呈してました。
60年安保の時に左翼勢力に対抗する為、右翼陣営は社会主義革命の危機感募らせ、児玉誉士夫や笹川良一等に頼り、博徒、的屋、不良、一人一党、バラバラの基本姿勢であった他の右翼陣営を1つにまとめ上げ、武力闘争も辞さないと言う構えをし、左翼を退けました。
ただ、博徒、的屋のヤクザ勢力が何を勘違いしたのか、「俺たちは国士なんだ!」と口々に叫び、連携し雨後の竹の子の様に任侠右翼を結成しまくります。その延長線上が今の「嫌がらせ好きなエセ右翼」です。
児玉誉士夫は右翼の主流であり、反主流は故人赤尾敏で(大日本愛国党初代党首)あり、築地の朝日新聞社で二丁拳銃自殺した新右翼の教祖とまで言われた野村秋介も反主流派のひとりでしたが、ただその後に児玉誉士夫は野村秋介に対し激励詔書を認め、それを自分の門下生である福田進を通して横浜の未決監の元に届けています。
児玉と野村の出会いは実現しませんでしたが、前述した事が野村のそれからの活動に大きな影響を及ぼしました。その影響が反映されている言葉に「俺はね、一番好きなって言うかさ、尊敬する人間を選べって言うのなら、案重根なんだよ。凄くない?日本とか、朝鮮だとかじゃなく人間として立派だと思うよ」と言うコメントです。
赤尾敏に関してのイメージは当然「数寄屋橋の街宣車による街頭演説」でした。反主流派だと言われる由縁は「親米反ソ」を掲げていたからでしょう。主流派は「反米反ソ」ですから。それと元々社会主義運動に従事していたのもあるのでしょう。ただ、元社会運動家は戦前の右翼活動家にも結構おります。
赤尾敏亡き後はいくつかの主張がぶつかり合って分裂し、脱退者や独立者が多く、赤尾敏総裁亡き後は街頭演説も当局によって5分程に制限されており、赤尾敏と同等の力を継承出来ていないのをみれば、如何に赤尾敏のカリスマ性が凄かったかを物語っています。
私は、どっちか言うと、井上日召や安岡正篤~四元義隆派だったので、活動自体内容が全く違いますけど。そして一番尊敬するのは頭山満ですね。今のエセ右翼は企業ゴロとか弱いモノイジメを楽しみで自己陶酔しているくだらない輩たちの集まりで、井上日召の血盟団の様なテロさえ出来ないでしょう。
尊敬する人物は今まで前述した他には、内田良平、五百木良三、葦津珍彦、津久井龍雄、影山正治、大川周明位ですね。