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元中日の長谷川繁雄選手を知ってますか?

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ID非公開さん

2016/11/1522:15:05

元中日の長谷川繁雄選手を知ってますか?

1962年

試合前の長谷川は寺田の話がもちっきりのダッグアウトを見ながらふきげんだった。「テラ(寺田)は二ホーマー、オレはかすんでしまいそうやな」だがバッティング練習でトップを打った長谷川の打球はガンガン右翼席へとび込んでいた。四回先制のホーマーを放った長谷川は試合前のふきげんはどこかへ吹きとばしたような表情だ。「まっすぐやったと思うな。スイッとバットが出よった。手ごたえはあんまりなかったけど、手首にはツンときたな」四打数ノーヒットの寺田がその前をムッツリとして通った。「バック・スイングを小さくしてスタートしたのがやっと自分のものになってきた。去年までは大きく振りまわしていたけど、いまは気にしなくて小さく、そしてシャープになってきている」石本コーチも「南海時代のもろさはなくなった。五年間ものび悩んでいたものがいまさらうまくなるかとよくいわれたが、私の思いどおりに育っている」と安心したような口ぶりだ。だがこの本塁打にも秘密があった。南海時代杉浦のボールを一番よく打ったのが長谷川だ。森滝はフォームもほとんど杉浦と同じ。それでいてスピードは杉浦より少しない。「リーグはかわってもどんなところでプラスになるかわからんもんだな」とニヤニヤ。ただ北川にはとまどったようだった。「あんなクロスして投げるのは若生(大毎)ぐらいやからな。それも横手と上手との違いがある。八回三振したのは全然見えなかったよ。オープン戦ではほとんどパ・リーグ相手やったからよかったが、これからの相手投手を研究するだけでも精いっぱいや。セ・リーグの投手はパ・リーグより落ちるというけど、そんなことはないよ」中日にはいったとき南海・鶴岡監督が「あれがクリーンアップを打つなんてね・・・」といっていた。奮起をうながすための言葉だったのだろうが、とにかく長谷川は三番定着に必死だ。最近の口ぐせは「他人がどんなこといおうと勝手にいわしておくさ。オレはもう中日の長谷川やで」最後にはおこったような口ぶりでバスに乗り込んだ。

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2016/11/1523:01:30

知らなかったので調べました。

竹原高校を卒業後、法政大学を経て、1956年に南海ホークスへ入団。

ここでは1年目から主力打者として活躍、3年目の1958年には122試合に出場し、打率.276(リーグ9位)と好成績を残した。

翌年は400フィート打線の5番打者として打率3割をマークする活躍で、4年ぶりのリーグ優勝に貢献。

読売ジャイアンツとの日本シリーズにも勝利して、シリーズ優勝の美酒も味わった。

打力はあったが、守りが欠点であった。

また左投手に弱く、同期の大沢啓二や穴吹義雄に差を付けられた。

1962年に寺田陽介とカールトン半田(半田春夫)と共に井上登と交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍し、翌年は近鉄バファローズでプレーして、この年オフに引退した。

引退後は大阪市でレストランを経営していたが、わずか3年後の1966年6月24日に和歌山市内で乗用車を運転中にハンドル操作を誤り、車ごと海岸に転落して死亡した。


長谷川の突然の事故死については、当時球界を騒がせていた黒い霧事件への関与から謀殺されたとの声も聞かれた。

通算837試合登板
1994打数 537安打 54本塁打 240打点 .269

オールスターゲーム出場:1回 (1958年)

背番号
26 (1956年 - 1962年)
27 (1963年)

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質問した人からのコメント

2016/11/15 23:02:19

うひょおおお

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