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元亀三年(1572)の武田信玄の出兵(いわゆる三方ヶ原の戦い)が「京都を目指し挙...

gpx********さん

2017/4/1308:16:45

元亀三年(1572)の武田信玄の出兵(いわゆる三方ヶ原の戦い)が「京都を目指し挙兵した」(=上洛を企図したもの:平成29年4月12日付読売新聞文化面記事より)という解釈が為されていますが、

果たして信玄は本当に京都を目指していたのでしょうか?

私個人は「これ」という見解は持っていません。「初めに結論有りき」の質問ではないので、様々なご意見をお聞かせください。

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sto********さん

2017/4/1405:47:44

上杉謙信を盛る『歴代古案』に記された内容を裏付ける原文が発見されたという記事ですよね。

『歴代古案』をデータベースで調べているのですが、探すのに手間取っています(^_^;)
記事に文面は記されていましたか?
謙信に宛てた書状で、家康は信玄が領内を素通りして上方に向かうという趣旨のことが記されているのでしょうか。

別質で、私は元亀二年の信玄宛御内書は信玄死後の元亀四年に出され、信玄生存時に上洛要請などなかったと回答しています。

当時者 信玄の書状ではないので、上洛説を裏付ける史料にはなり得ないと思うのですがね。

  • 質問者

    gpx********さん

    2017/4/1407:22:11

    ご指摘の通りで、記事は謙信が家康に宛てた書状の原本が発見されたというのがメインの内容です。

    「書状は縦約17cm、横約45cm。三方ヶ原での合戦の直前、12月3日に謙信が、家康の親族で上杉との外交交渉を担当していたとみられる『松平左近允(真乗)』に宛てたものだ。書状の末尾に『謙信』と署名され、花押がある。謙信、家康、信長の三者は、信玄の侵攻に備え72年以前に同盟を結んだ。書状は同盟に基づき、謙信に加勢を依頼した家康への返書だ。」

    「謙信は家康に、自軍側の状況が落ち着いたらすぐに『信関(信濃、関東)』に出陣し援護するつもりだと記し、すぐには援護に向かえないことを伝えている。」

    というのが記事のあらましで、書状には信玄が上方に向かう云々といった旨の内容は記されていないようです。書状の全体写真が掲載されていますが、崩し字のため私には読めません(苦笑)。

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質問した人からのコメント

2017/4/19 19:57:25

皆様ご回答有難うございました。

推測ならば色々と考える事は出来ますが、やはり根拠(となる史料)が無いと説としては説得力に欠けますよね。

新聞は「上洛目的」とした方が一般人が取っ付き易いからそうしたのでしょうが、果たしてそれが正しいのかどうか・・・。

ベストアンサー以外の回答

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2017/4/1820:56:57

どうでしょうかね。一つ一つ徳川の支城を落として進む武田勢ですが、武田勢は農兵主体の軍勢ですから冬しか戦できないのに…あと二三ヶ月で上洛できる?かな?織田の支城の方が徳川より多いし、徳川家康領にも遠州浜松、掛川、高天神、三河岡崎、吉田など主要な城を残したままで信長と決戦するのはどうかなと

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oia********さん

2017/4/1511:21:51

まず、武田信玄が「信長と戦う」「信長を滅ぼす」という意志を示していたのは紛れもない事実です。

信玄は、美濃北部の国衆遠藤氏宛ての元亀3年12月12日付け書状で「明春に美濃へ出勢する」と記して、岐阜攻めへの助力を求めています。同じ主旨の書状は他にも発行されています。
朝倉義景宛の元亀3年12月28日付け書状でも「信長滅亡の時刻到来」と言って義景の協力を促しています。他にも朝倉義景や浅井長政宛ての、信長を敵として協力するよう記した書状は複数確認されています。
更に、足利義昭の側近である上野秀政宛ての元亀4年1月11日付の書状でも、比叡山を焼き討ちにした事などの信長の非道を訴え、信長と戦う事の正当性を主張しています。

このように信玄は、元亀3年の出兵を信長と戦うためのものだと広く公言しており、朝倉義景には信長を滅ぼす意志まで示していた訳です。
ただし、元亀4年1月の時点で、足利義昭の側近に信長と戦う事の正当性を主張しているという事は、その行動が義昭の依頼によるものではなかったのも間違いないと言えるでしょう。
この点について、私も今まで信玄の行動は義昭の依頼を大義名分としていたと思っていたのですが、少なくとも元亀4年1月の時点で、明白な形で義昭からの信長討伐依頼なかったものと考えるべきだと思われます。

いずれにしても、信玄は信長を滅ぼすという意思を示しています。当時信長の勢力は京まで及んでいたのですから、本当に信長を滅ぼすならば、必然的に京まで攻めあがる事になるでしょう。
ですので「信長と戦う・信長を滅ぼす」を実質的に上洛を目指したものと解釈しても、それほどおかしくはないと思います。

という事で、信玄の書状という史料に基づいて考察する限り、信玄の目的は信長と戦う事であり、実質的に上洛を目指していたと考える事も十分可能だと思われます。

これに対して疑問を投げかけるのは、軍事的な常識というものだと思います。
当時の武田家と織田家の勢力をみた場合、いくら信長の周りが敵だらけだったと言っても、信玄が一気に信長を滅ぼす事まで可能だったとは到底思えず、信玄がそんな無茶な作戦を実行するともにわかには信じられません。

実際それまでの信玄の軍事行動は、基本的に自分よりも弱い相手を攻めるというもので、最も大胆な行動だったと思われる小田原攻めも数日で撤兵しており、本気で北条氏を滅ぼすつもりだったとは到底思えません。
その信玄が今回は本気で信長を滅ぼし、結果的に上洛まで成し遂げる事を考えていたとするのは不自然だと言えます。

また、書状に記されたことがそのまま信玄の本心を表しているとは言い切れません。
書状において、自分の都合の良いように事実を誇張したり、時には明白な嘘を書いたりする事も当然あり得るからです。

ここで信玄の書状の内容を見てみると「美濃に攻め込む」とか「信長滅亡の時刻」とか言いつつ、相手に信長への敵対行動を促しています。
遠藤氏や朝倉義景が北で信長への敵対行動を行えば、当然信長は家康への援軍を送りにくくなります。そうなれば、信玄は徳川から領土を奪いやすくなります。
つまり、信玄の本当の目的は徳川から領土を奪う事、或いは可能なら徳川を滅ぼす事であり、信長と戦うから協力してくれという書状は、そのために有利な状況を作り出すための方便だったと解釈することも可能でしょう。

以上まとめると、信玄はその書状において信長と戦う事を公言しており、信長の滅亡にまで言及しているので、そこから類推して上洛を目指していたと考えるのは、根拠がない事とではない。
しかし、当時の状況から判断していきなり信長を滅ぼすことは極めて難しかったと思われるので、そのような事は本気では考えておらず、実際の目的はあくまでも徳川領だったと考える事も出来る。と言えると思います。

個人的には信玄のそれまでの軍事行動の傾向を考えれば、やはりいきなり信長を滅ぼすところまで考えるとは思えないので、本当の目的は徳川領だったのではないかと思っています。

しかし、晩年に至った信玄が今までと異なる考えを持った可能性もないとは言い切れません。
そして、本当に信長と雌雄を決するつもりだったとしても、まず徳川を叩いて、他の反信長勢力とも協力するというのは至極妥当な戦略ですので、実際に信玄が行った行動のなかで、信長との対決の意志を明白に否定出来るものはないと言えます。

ですので、結局のところ現時点で信玄の本当の思惑を断定することは出来ないと言わざるを得ないでしょう。
そういう状況ではありますが、私としては上記のとおり本当の狙いは徳川領だった可能性が高いと個人的には考えています。

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bir********さん

2017/4/1407:33:19

当時は「遠くの味方、近くの敵」という戦法が一般的
でした。大名同士、隣近所どうし敵対しやすいのは
領土境界を、めぐって合戦が起きやすいからです。
武田と徳川が交戦となったのは武田と徳川の間に、
はさまっていた今川が武田と徳川の双方から攻められ
耐えられず滅び武田と徳川は直接、対峙することと
なり互いに遠江を独占支配したかったので交戦が不可避
だったのが武田は上杉と不戦の情勢となり徳川との
合戦に専念できる環境が確立したからです。
徳川は領土境界が接してない遠方の越後上杉と同盟
しました。しかし上杉が武田と徳川との合戦に
武田を上杉が、牽制できなかったのは、越後上杉が
進出を狙っていた越中の一向一揆が武田の支援で
活動が活発となり越後上杉は武田と戦う余裕が無かった
からです。武田は石山本願寺と提携関係を結んでおり
一向一揆の協力を得られた背景によって武田は
徳川と合戦に集中できたのです。
その徳川は織田と同盟しているので、直接、上洛行動を
、しなくとも徳川を、やっつける行為じたい、が
武田には、織田の天下布武を妨害する効果が、あった
わけです。

tri********さん

2017/4/1323:17:19

甲陽軍艦ではそうなってますね。

ただ信玄、自身が大義(戦争理由)として
言ったかもしれませんし
私には現実、何だか無理な気がして・・・。

敵となる織田、徳川から
依頼された幕府に
周辺の諸大名、家臣、国人などなどに
戦争の大義(理由)として発表したんじゃ?と
思っています。

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kas********さん

2017/4/1308:30:45

京を目指しているのならば浜松に徳川を残すのは愚策です。
完全に潰すか、仲間に引き入れるのが常道でしょう。

また、織田軍と戦い尾張を抜いても岐阜はなかなか時間が掛かります。
更に織田は滋賀近江にも拠点があります。

それを一気に押し進めると思っていたのなら信玄も二流の武将です。
今のように携帯電話も無線もない時代では
あれだけ国力が違い動員力も違うのでは周囲を包囲したといっても
広すぎて連携が取れません。
各個撃破されてお終いです。

信玄は二流の武将ではなかったでしょう。
「瀬田に旗を掲げよ」なんて創作話でしょう。

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