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邪馬台国の金印について質問です。 邪馬台国が魏よりもらった金印は、現存する...

hom********さん

2017/4/2823:47:30

邪馬台国の金印について質問です。

邪馬台国が魏よりもらった金印は、現存すると思いますか?

私は、邪馬台国が滅びたんなら溶かしたり見つからないように海中投棄している気がします。また、滅びなくても、やはり延べ棒のように姿は変わっている気がします。

もしも姿そのまま残っていて発掘されたら、金印が出てきたところが邪馬台国の有力地という説になりますか?畿内や九州と全然違うエリアから発掘されたら、学者はそこを邪馬台国と認めるでしょうか?

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kuw********さん

2017/4/3014:57:22

>邪馬台国が魏よりもらった金印は、現存すると思いますか?

関西大学名誉教授の大庭脩氏によると

『古代中世における日中関係史の研究』(同朋舎出版, 1996年)P.14

「つぎに、一般に蛮夷印と総称される一群の官印があり、これは中国王朝から異民族の首長などに与えられたものであるが、多くの異民族に賜与したため遺存例が多い。」

とのことなので、「親魏倭王」が残っている可能性がある。

>もしも姿そのまま残っていて発掘されたら、金印が出てきたところ
>が邪馬台国の有力地という説になりますか?

なりません、金印は持ち運び可能なので移動している可能性がある。

なぜなら、古墳の多くは中世の混乱期に盗掘されていて金印が持ち運ばれていることも十分に可能性としてある。
志賀島で発見された「漢委奴国王印」も、周辺に遺跡がなく持ち運ばれた可能性が高い。


ただ、「邪馬台国」の位置を推定できる遺跡として「卑弥呼」の墓がある。

現在、「邪馬台国」の最有力候補地である「纒向遺跡」には「箸墓」は卑弥呼の墓ではないかと推定できる。
魏志倭人伝には「卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。」とあるが「箸墓」の後円部は径約150メートルで「径百余歩」と一致する。

「箸墓」の本来の姿(植林される前)は見聞した記録には円墳であると書かれていて、天明5年(1785年)に刊行された「書紀集解」には「箸墓」は円形の丘であり、長木はなく、イバラが生い茂っていると書かれ、寛政三年(1791年)も「大和名所図会」には五段に築城されている円墳状の墳丘と描かれている。

つまり、3世紀に倭にやってきた中国人も同じく「箸墓」を円墳と誤認して「径百余歩」と記録しても不思議はない。

また、「箸墓」の築造年代についても最新の年代測定で、卑弥呼が亡くなった247年の近い時期に築造された結果がでている。

▼国立歴史民俗博物館研究報告 第163 集 2011 年3 月

「古墳出現期の炭素14年代測定」
春成秀爾・小林謙一・坂本稔・今村峯雄・尾嵜大真・藤尾慎一郎・西本豊弘
172~173頁

「古墳開始期にかかわる桜井市纏向遺跡群出土試料などの炭素14 年代測定を系統的に実施した。
測定結果は日本産樹木年輪の炭素14 年代測定に基づいて較正し,土器型式および出土状況からみた遺構との関係による先後関係から,箸墓古墳の周壕の「築造直後」の年代を,西暦240~260 年と判断した。」




つまり、奈良県桜井市にある「箸墓」は「径百余歩」の記録と一致する古墳であること、炭素14放射線年代測定法の結果から卑弥呼の亡くなった時期に造営されたと推定されること、この時期に、他にこれほど大きな墳墓はないということ。

これらの三つの理由により「邪馬台国」は畿内にあったといえるでしょう。

古墳は金印と違って移動しませんから確実に「邪馬台国」の所在を特定できます。

  • kuw********さん

    2017/4/3022:13:55

    >もともと邪馬台国は、倭国の中でも弱小勢力で、
    >ただ周囲の大国の男王たちが相争って決着がつか
    >ないため、
    >妥協の産物で推戴された倭人たちの盟主と、
    >魏志倭人伝にははっきりと書いてあります。

    いいえ、「共立」と書かれていたのを勝手に盟主たちに推戴されたと解釈しているだけのことです。

    京都大学名誉教授の上田正昭氏は、「共立」の解釈について以下の理由をあげて「庶子が王位に就いた」時に使用したと説明している。

    一、三国志に書かれている「共立」の用法を検証して

    ▼東夷伝高句麗の条 
    「伯固が死んで二人の息子が残された。長男を抜奇といい、弟を伊夷模といった。抜奇が愚かであり、すなわち国人は共議して、伊夷模を王に立てた。」

    嫡子の長男の「抜奇」ではなく、庶子の次男「伊夷模」が王になっている。





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2017/5/5 23:09:38

生きているうちに出てこないかなー

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kon********さん

2017/4/3020:12:18

「親魏倭王」の金印はそのままの形で残っていると思います。どこかに―ー。

神武東征神話に、イワレヒコが手にする弓に金鵄(金色のトビ)が舞い降りる場面があります。
あれは、邪馬台国と狗奴国の間で戦いが始まって帯方郡から渡来した役人の張政が、魏の皇帝から託されて邪馬台国に渡した黄幢のことを神話で語っているのではないかと思います。
小国が相乱れて混沌とした状況の中では、魏の威光は戦況に影響を及ぼすほどの、非常に大きなものがあったのはないでしょうか。

翻って「親魏倭王」の金印ですが、それを鋳つぶしたり加工したりするなどということは考えられません。
地金の価値よりも、私たちが考える以上に当時の金印の意味合いは大きかったと言えます。

toh********さん

2017/4/3015:41:22

出てきただけじゃ即比定とはならないでしょうね。
持ち運びができるものですし、偽造ということだってありえる。
ただ、有力な新事実ということにはなります。

もともと邪馬台国は、
倭国の中でも弱小勢力で、
ただ周囲の大国の男王たちが相争って決着がつかないため、
妥協の産物で推戴された倭人たちの盟主と、
魏志倭人伝にははっきりと書いてあります。
国交の場で、
中華帝国から倭人たちの盟主と認められて、
その記事が後世に残ったんでそうなりましたが、
倭人たちの男王がその気になればすぐにでも抹殺されてしまう立場です。
みんなこのことを忘れているじゃないですかね。
なんで奈良盆地に卑弥呼の墓があるんですかね。
邪馬台国が大和朝廷の遠祖だったら、
ジンムスイゼイアンネイイトク・・・と万世一系で奈良盆地で覇を唱えていた大和朝廷に、
ヒミコと思しき女帝が日本書紀に出てこないはずがありません。

rtr********さん

2017/4/2909:37:45

もしも、どこかで、『親魏倭王』の金印が発見されたとして、それが本物かどうか、証明できるででょうか?

国宝の『漢委奴国王』の金印ですら、出土時から、その真贋がいまだに疑われています。

もしも、どこかで、『親魏倭王』の金印が発見されたとして、それが本物かどうか、証明できるででょうか?...

kas********さん

2017/4/2909:34:31

「親魏倭王印」京都に現存しますよ。



飛鳥昭雄が本を出しています。

真偽が不明な親魏倭王印ですw

ejn********さん

2017/4/2900:33:21

なんか金印って、基本的には貰った人が亡くなったら、中国に返すものらしいです。
卑弥呼が亡くなったとき魏からの使者が来ていたから、持って帰ったとか。
もし日本国内で金印が見つかっても、そこが邪馬台国という決定的な証拠にはならないでしょう。
金印は持ち運び可能なので。
金印が出土した場所を邪馬台国と主張する学者はいるでしょう。
だからといってそこが邪馬台国と確定はされません。

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