ここから本文です

戊辰戦争と明治維新の二人の軍事指導者。 西郷隆盛と大村益次郎は仲が悪かったの...

rir********さん

2017/5/3020:43:28

戊辰戦争と明治維新の二人の軍事指導者。
西郷隆盛と大村益次郎は仲が悪かったのですか?

閲覧数:
412
回答数:
2

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

ゆめさん

2017/6/502:31:37

あくまで個人的な解釈ですが、味方だったから仲は悪くなかったものの、軽口を叩き合うような親密さがあったとは思えません。

大村益次郎は、無駄口を叩かないタイプです。西郷隆盛みたいに胡座かいて皆でワイワイ酒を飲みながら語り合うより、一人で豆腐をあてに酒飲むのが好きだったし、二人が話すのなら軍事的な事しか無さそうです。適塾に居た頃ですら、討論に参加せずに窓辺でお酒飲んでましたからね…

しかし、互いの能力に一目置いていたのは間違い無いです。

戊辰戦争での軍事指揮官トップは大村さんでしたが、抜擢したのは西郷さんです。薩摩には有能な指揮官が沢山おり、中でも伊地知正治は非常に優秀でした。西郷さんが、伊地知さんではなく大村さんをトップに選んだのは長州とのバランスもあるんでしょうが、有能さを見抜いてたからだとも思います。

前の方も書いてらっしゃいますが、大村さんは西から敵が来ると西郷さんの先の行動を読むような言葉と、大砲を大量に製造させて、大坂あたりに置いてました。薩摩は大砲王国でしたから、負けないように量産していたのが西南戦争で役に立ちました。

上野戦争の戦略に、西郷さんが難色を示したのは、一番きつい正面からの攻撃場所に薩摩が設置されていたからなんですが、それにはちゃんとした理由がありました。大村さんは説明するのが面倒だったのか

西郷「薩摩を皆殺しにするつもりでごわすか」
大村「さようで」

みたいな感じで済ませてしまったようです。もっとちゃんと説明すればいいのにと思ってしまいますが、当時は余計な事を言わないタイプも多かったので仕方ないです。

話は逸れますが、薩摩を正面配置にした理由は、不忍池があったので、確か熊本藩などの、池越えが出来る性能の大砲を持ってる部隊を選んで置いただけです。しかし確かに死者は薩摩が一番多かったです。

上野戦で長州は薩摩より人数が多かったのに、楽な裏面に配置されてました。この時の長州は鉄砲を替えたばかりで、調練を全くしてない状態だったから裏です。弾の込め方すら分からない部隊など、ぶっちゃけ役に立ちません。開戦してから本気で使い方が分からず、逃げ込んだ先で調練をはじめた可哀想な長兵です。そんな状態でも出すしかなかったんでしょう。

話戻ります。大村さんは適塾や宇和島藩に居た頃と、長州に戻ってからの言動が、別人のようだったと、同じ適塾出身の福沢諭吉が言ったか書いたかしています。いきなり攘夷攘夷言うようになったらしいので、長州色に染まった時期があったようです。その後も言動が変わっていきますが、西郷さんは比較的に一貫してる気がします。なので、時期によって仲の善し悪しが変わった可能性もあります。まぁ、大村さんはすぐ暗殺されてしまいましたが…どちらも生きて欲しかったです。

  • 質問者

    rir********さん

    2017/6/513:44:13

    なかなかお詳しいですね。
    でもよくわかりました。
    感謝。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

質問した人からのコメント

2017/6/6 17:11:24

ご回答ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

2017/5/3109:47:45

同じ討幕派で軍事派なのであまり仲は悪くないと思います。しかし人情家の西郷に対し大村は合理的な考えで上野戦争で激戦必至となる持ち場に薩摩藩兵を置いた際西郷が「薩摩を皆殺しにする気か」と言われ大村は「そうです」と言いきりました。一方大村は西からの脅威に警戒するよう言ったとされます。(西郷の西南戦争を示唆したものと言われる)

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる