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名古屋って明治政府からしたら敵(江戸幕府)の御三家筆頭なのにどうして明治政府は...

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ID非公開さん

2017/6/2723:04:56

名古屋って明治政府からしたら敵(江戸幕府)の御三家筆頭なのにどうして明治政府は名古屋を発展させ、東京、大阪に次ぐ大都会にしたのでしょうか。

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edo********さん

2017/6/2723:42:13

尾張藩は幕末に新政府側として協力しています。
第一次長州戦では征長総督だったが穏便な措置で収め、長州の延命を可能にしました。

大政奉還の後は新政府の議定となり、二条城や大坂城の引き取りの代表となった。
鳥羽伏見の戦いのあと、帰藩して藩内の佐幕派14名を死罪にし(青松葉事件)、幕藩体制との決別のためには藩内外に計り知れない宣伝効果があった。その後も中部地方の各藩から勤王の請書を集める窓口となり、さらに官軍の主力として中山道から東北にかけて戦っています。

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    質問者

    ID非公開さん

    2017/6/2800:06:27

    新政府側の勢力として戦ってたのは知りませんでした。
    でも新政府側として戦っていたのに県名と県庁所在地名が異なっているのはどうしてなのでしょうか。

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2017/7/1 09:50:17

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pol********さん

2017/6/2807:35:40

明治政府の元勲たちは、尊皇攘夷は方便だったと認識していたからであります。
政権が安定すれば、反徳川である必要もありませんでした。
徳川慶喜も政府要職への就任を明治政府から度々要請されましたが、辞退していました。榎本武揚をはじめ、旧幕臣であったが有用な人材は多数明治政府に登用されています。
ただし勝海舟は別格で、薩摩からは嫌われていたようで、要職への就任依頼はありませんでした。勝海舟の毒舌体質が、嫌がられていたようです。
明治末期になると、元勲達が他界し、明治政府のこの本質を知るものがなくなり、明治生まれの頭でっかちの軍官僚どもが、尊皇を過大評価しはじめたのが、悲劇の始まりでしょう。

2017/6/2806:16:41

一説になりますが、

幕末の14代藩主徳川慶勝は血筋が
「水戸系」だったため、
「尊皇」の考えが強く、
朝廷が主流となったとき、

朝廷側につくことを早めに決めた可能性が有ります。

早めに付いたため、
徳川であっても優遇された可能性が高く、
本来、江戸幕府を倒し、その当主である
徳川慶喜を「弑」することで、
尊皇を完結させようとしていた薩長が
徳川の血筋は最悪尾張で存続させよう、

と考えていたでしょう。

が、結果的に慶喜は「ひたすら無抵抗」によって
逃げ切られてしまい、結局「無血」
(この場合は責任者、将軍やその他幕府の上役たち)
で倒幕できてしまったたため、

尾張徳川の存在が「宙に浮いた」格好となって
しまいました。

でも、早くに着順した功績は大きいため、
新政府での扱いは丁寧なものでした。

zez********さん

2017/6/2723:26:54

その理屈だったら敵の本拠地である江戸を発展させるはずがないですよね?

マジレスすると尾張徳川家は本来なら御三家筆頭であるにも関わらず一度も将軍を出せないまま江戸時代を過ごしており、その影響もあって幕府への反感も根強く、幕末動乱期では結局新政府軍に加わっています。

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