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どうしてミュージカル「ウエストサイドストーリー」のラストは、原典の悲劇「ロミ...

adj********さん

2017/7/1620:59:29

どうしてミュージカル「ウエストサイドストーリー」のラストは、原典の悲劇「ロミオとジュリエット」と違って、死ぬのはロミオにあたるトニーだけで、それも自殺ではなく他殺であり、ジュリエッ

トにあたるマリアは生き残るのですか?

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dor********さん

2017/7/1710:53:04

ウエストサイドの下敷きになっているのはロミオとジュリエットですが、ウエストサイドとロミオとジュリエットでは時代が異なっています。

あえて現代(今からすれば少し昔ですが)に舞台を置き換えたのは、その時代にする意味があったからだろうと思います。
たまに焼き直す意味があるのか、と思う作品もありますが、何らかの形で作り直されるときにはそれなりの意味があるのではと思って観ています。

ロミオとジュリエットではロミオとジュリエットが共に死に、残された両家は争い続けたことによってそれぞれ一番大事なものを失う事によって自らの行いを反省し、和解する。
繰り返される不毛な争いからは何も生まれない、むしろ失うことのみなのであるという教訓を示したとも言えるのでは。

ところが、このような教訓を早くから示されてもなお、世界では戦争も差別も無くならない。

現代に置き換えたウエストサイドで、両方から一人ずつが自殺して両グループが和解・・・そんな見え透いたきれい事が成立しないことは、実社会で紛争が絶えないことがそれを示しています。むしろ実社会では双方の報復活動が激化するだけです。

両家から死者が出ることによって悲劇ではあっても、和解してある種落ち着くところに落ち着いたロミオとジュリエットに比べ、ウエストサイドは自らの意思で死を選んだわけではないトニーの死の理不尽さ、愛する人を殺められたことによって殺人者をそう仕向けた社会の仕組みに憎しみを持ち、糾弾するマリアの存在によって、観客は心がざわざわしたまま終わります。
観客は事件の目撃者とされ、物語は終わっても、観客の中に終わりが来ないのです。

ロミジュリはあくまで他人事、それに対して、ウエストサイドは観客に対し、現実をつきつけて「で、あんたはどうすんの?」と現実社会で起きている物事に対して観客自身がどう行動するのかを問うているように感じられます。

ただ、感じ方は人それぞれなので質問者さんも、何故だろう、どうしてだろうと考えられて、ご自身の答えを見つけてもいいのではと思います。

  • 質問者

    adj********さん

    2017/7/1717:06:47

    ミュージカル版「春のめざめ」のラストの様に、朝日が昇り、問題の解決の糸口が見えなくとも、希望を捨てず、前向きに未来へと向かっていこうと合唱して、ポジティブに終わるのでは、ダメだったのでしょうか?

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質問した人からのコメント

2017/7/23 08:17:31

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cry********さん

2017/7/1714:42:21

原作の「ロミオ、早とちり勘違い自殺」を、あなたはどう思いますか?

どう考えても、吉本新喜劇級の一人合点な奇妙な策略(調合した薬でもって仮死状態で眠るジュリエット。驚き、反省する親族。その時ジュリエットは目覚める。生き返ったジュリエットに大喜びの親族一同。どさくさついでのロミオとの結婚許可は道理においての必然。自分(司祭)は人々より感謝され、当然の如くそれは寄進の申し出となって結実し、めでたしめでたし。)を思いついた神父さんに、薬物投与実行犯としてのこれは全責任があると思っています。

相当年上の、世慣れたはずの、紛争地域住民を安寧に導くのが役職の、ロミオ(18才)とジュリエット(16才)からも信頼されているはずの人間が考え出すアイデアではないだろう、と、まず私はそれが気になって仕方がありません。

(シェイクスピアが原作を書き、イギリスで上演されて大評判を得た時代に、これが非常に気になるような挿話であったかどうかは、もちろん私にはわかりません。善意には違いないとしても、「愚かな善意」ぐらいの含みは当初からの構想としてあった、とは思いますが。)

それで、ミュージカル『ウエストサイドストーリー』ですが、「ロミオ、早とちり勘違い自殺(+ジュリエット後追い自殺)」という、吉本新喜劇がすべってみんながドーンと嫌な気分になるような取返しがつかない結末を、そこを現代的に回避しようとすると、トニー(≒ロミオ)には(作劇上の)他殺で死んでもらうしかない、ということなのでは、と。

自殺と他殺のどちらの方に違和感を覚えるか、地域紛争解決のための「(劇的)生贄」としての<ロミオとジュリエットの死>を果たしてどのように現代アメリカ人は受け止めるか等々、ここに原作との発想の違いは確かにあると思います。

(現代、といっても20世紀半ばのニューヨーク下町。イタリアから移民してきたコミュニティーのリアリティということなのでしょうが。)

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piy********さん

2017/7/1621:22:32

そういう作品だからです。

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