これは道教の自然(しぜん)ですか。仏教の自然(じねん)ですか。 以下は、現代日本人の仏教徒の、芸術についての説明ですコピペ抜粋。

これは道教の自然(しぜん)ですか。仏教の自然(じねん)ですか。 以下は、現代日本人の仏教徒の、芸術についての説明ですコピペ抜粋。 , , 世の芸術家"artists"の中でも、心のすがたに透徹した人は「心象の自然"nature of the mind"」について考え、それを重んじている。「自然(じねん)」とは、そもそも能動的な追及で得られないものであるし、能動性や主観性や価値判断などを無くした世界そのものを指す言葉である。自然についてどう理解して追求し続けても100%の自然にならないどころか、90%、99%、99.999%となるに連れてますます「底無しだ・無限だ」と思える。このように自然は「不可得」だが、描かれた色相において自然の徳が顕れよう。(略します)先に説いたような禅定の精神が据わっていないことには、実技として困難だろう。更に絵画の理論や経験や技能が必要ではあるが、微妙なバランスでそれらを制御する必要もある。形式的な理論・経験・技能を超越した、「正しい経験」は「経験」として認識されない、大切なものだ。「正しい経験」は、心に浮かんだ色相をそのままに・自然にして紙に顕す。何とも、私が理論として説くことはできないし、それを説くことが「自然」に反する。何となれば、「自然(じねん)」とは、そのような玄妙の相であるからだ。真理・諸法・実相も同じく、仏が「言を以て宣ぶべからず(不可以言宣)」と仰せになり・・・ , , 以上、玄妙の相は説けない・把握できない、ということを不可以言宣や不可得という漢語で言っているようです。 道徳経の最初の方に「道の道とすべきは、常の道に非ず。 名の名とすべきは、常の名に非ず。(略します)玄の又玄、衆妙の門なり。(略します)是を以って聖人は無為の事に処り、不言の教を行う」と似ています。 道教の自然ということは「無為自然」とも「希言自然」ともいうので、彼の「説けない(だけど説くということが中庸)」という仏教の理解と共通します。 仏教だと、禅宗系・禅家が好む方面とも、天台大師に影響がある(金剛般若経疏に般若幽玄微妙難測と)とも聞かれます(伝教大師の書に証諸法幽玄之妙という言葉もある)が、この辺(自然)は道教と仏教とで相反しない教えですか。 ぼきは、よく似ると思いますし、所謂「諸教同根」と言う人もいますが、老子さんとお釈迦様の、もっといろんな教えは、いくらか異なる事もわかります。 この辺(自然)の基礎は、相反しない教えですか。 三教指帰など詳しい人は、多分わかりますよね。。。浅学無知のぼきよりも。

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補足

前代未聞の大居士は神変不思議を現じたまふ 人はなほもてこれを見ず褒めも謗りも無きものぞ

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引用の文章中に言われる「自然」観は、おそらく「禅仏教」の視点に立つものではないでしょうか。 もともとその性格上、禅は老荘思想と親和性があり、中国において禅宗が確立する過程で一定の影響を受けたと考えられ、日本の禅文化ではさらにその繋がりが深められた感すらありますから、その意味で禅仏教と老荘思想の自然は「文化的に」似ている部分が大いにあると思います。 また、ご指摘の通り、禅以外にも仏教では「自然」という言葉が少なからず使われるんですが、これは仏教経典がパーリ語やサンスクリット語から中国語に翻訳される際、当然ですが、訳者が概念的に近いと感じる中国語の単語に置き換えた結果なわけです。 しかし、当時の中国語の「自然」には、はなから老荘思想的なニュアンスが纏わりついていますよね。 だから、その翻訳が翻訳として扱われている限りはよいとしても、一旦それが中国仏教において原典的な権威を獲得してしまうと、もともとインド語の経典で説かれていたニュアンスから離れてしまう場合が、まま有り得るのです。 とくに、ほぼ全面的に漢訳経典を通じて仏教を受容するしかなかった日本においては、中国思想と仏教思想とを一つ一つ厳密に区別して考えるには限界があり、中世から近世にかけての日本仏教界は、良かれ悪しかれ老荘思想に通じるような「自然」観をしきりに説いていたような印象が拭えません。 「幽玄」なんて語も、必ずしも道教用語というわけじゃないのですが、それでもやっぱり道教的なニュアンスが漂ってきますよね。 ちなみに『三教指帰』に登場する道教の虚亡隠士は、神仙説の中でも通俗的な養生論を熱心に説いている人なので、老荘の哲学的な問題とはあまり関係ない感じです。 以上は、主として「自然」という用語の扱いについての問題でしたが、ではそもそも老荘思想における「自然」と仏教における「自然」の観念には、本来的に通低するものがあるかどうか――という問題が残ります。 自然を「あるがまま」の意とし「そのままで良い」と捉えて、これを突き詰めていくと、流れのままに流されて、すべては運命や宿命の為せる業なのだから、八正道やら出家やら努力やら、そんなものは何の意味もない――という事になってしまいます。 そのような決定論的な考え方を、初期仏教では「自然外道」として激しく非難し、排斥しました。 したがって、仏教の「自然」といっても、その意味は一様ではないですね。 文化的親和性は別にして、仏教の説く自然と老荘思想の説く「自然」に、もし原理的に同じものがあるとするなら、それはざっくり言うと「自然=仏性」と置き換えても意味が通じるような場合に限られるのではないでしょうか。 つまり、人間はあるがままだと「人為」に取り巻かれ、こびり付かれていて、なかなか仏性が現われ出てこない。 そこで、不要な「人為」をそぎ落とし「無為」になるための修業が必要になる――。 こうした説き方だと、胸を張って諸教同根と言えるんですが、しかし「無為になるための修業」という考え方は、実は『老子道徳経』や初期の『荘子』には矛盾するものなのです。 そのような努力自体が人為、つまり自然ではないとみなされますから……