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中国の春秋戦国時代の士会・趙武はどういう功績があった人ですか?

san********さん

2017/9/1411:42:09

中国の春秋戦国時代の士会・趙武はどういう功績があった人ですか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

2017/9/1413:53:05

士会(范武子)(生没年不詳)は、春秋時代の晋の武将、政治家です。紀元前632年の城濮の戦いに従軍し、その後文公に車右に指名されました。その後、晋の後継者争いが原因で、秦に亡命し康公に仕えて、紀元前615年の河曲の戦役で晋の軍を次々と撃破します。紀元前614年、彼の軍際に着目した郤缺の策略によって晋に連れ戻され,大夫の地位と封地として范を与えられます。暗君だった霊公をしばしば諫めますが、聞き入れられず、霊公は紀元前607年に暗殺されてしまいます。紀元前597年の邲の戦いで晋は楚に大敗しますが、士会の指揮した軍は損害を出すことなく、退却に成功しています。その後、紀元前593年3月29日に晋の正卿(宰相)・中軍の将軍に就任します。同年、周の内紛を収め、定王からもてなしを受けますが、周の礼を知らなかったことを恥じて帰国後、典礼を研究して新たな法を定めます。その法は、「范武子の法」として、晋で長く尊重されました。士会は二年ほどで宰相を引退しますが、死後その功績から「武」の諡号を受けたことから、領地と諡号にちなんだ「范武子」とも呼ばれます。
趙武(紀元前597年ー541年12月7日)は、晋の政治家です。誕生する前、政敵に一族を皆殺しにされますが、母のみは公室の出身だったため命を助けられ実家に戻りますが、このとき趙武を妊娠していました。出生後は政敵の追及を逃れるため、父の友人だった程嬰に預けられ、山奥に隠れていました。成人後に後援者の韓厥に説得された景公に拝謁して、趙家の再興を許されます。
紀元前573年新軍の将に任命され、紀元前560年には上軍の将に昇格しますが、栄華を極めた趙一族が一度は瓦解したことを教訓として、徳を積み、常に温和な風貌を保ち、自ら一歩退く姿勢を取り続けました。紀元前548年に正卿・中軍の将となると大国だった楚との講和を目指し、紀元前546年7月に弭兵の会を催して、楚や斉、鄭、栄等の周辺諸国との講和を実現させたことから、「晋の名宰相」とたたえられました。趙家を再興し、楚や周辺諸国との講和という大業を成したことから、「献文」と諡され、「趙文子」と呼ばれることになりました。
幼少期の運命が劇的だったことから、趙武を題材にした作品がたくさんあります。

質問した人からのコメント

2017/9/16 12:13:03

有難うございました。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

shi********さん

2017/9/1412:25:29

士会の功績というのなら、晋国内の法整備でしょうか。士会は宰相の期間が短いので、目立つ功績ないんですよね。
その代わり失敗がほとんどない人です。特に武将としてはほぼ無敗です。

趙武の功績で一番大きいのは楚との和睦でしょう。
春秋時代中期頃までは、ほぼ晋と楚の戦いが中心となった時代でした。
それを終わらせて時代の流れを変えたのが趙武が宰相の時です。
その後、楚は南の呉や越との争いを主にした時代に入り、晋は秦と争いつつ、内戦へと突き進みます。

楚は呉と越を滅ぼした後再び北の国家との争いに入り、晋は内戦の果てに大臣であった趙・魏・韓の三氏が生き残ってその三国へと分裂します。
そこからが戦国時代です。

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