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関が原の戦いの、一番の功労者は誰と考えますか。 それぞれに意見が有ると思う...

uih********さん

2008/7/2616:40:59

関が原の戦いの、一番の功労者は誰と考えますか。

それぞれに意見が有ると思うので、意外な意見も教えて頂きたいです。

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ベストアンサーに選ばれた回答

human5172さん

編集あり2008/7/2709:15:58

ストレートに考えた答であれば、その後の「江戸幕府」のことも含めて(徳川家康)ですが、質問者様の《意外な意見》ということも考慮して回答します。

影の功労者は《秀吉の正室であった「北政所」》と考えてます。


関ヶ原の後に《大阪の陣》が2回有って、その2回目で「豊臣家」は滅亡しましたね。学生の頃「歴史オタク」つまり歴史のうら話に詳しく「学校の社会科が簡単すぎてつまらない」という先輩から教えて戴いた話から考えたのですが、

まず、《関ヶ原の戦い:1600年》の時には秀吉は死亡していた(秀吉は1598年死去)わけですが、この当時、跡取りの「秀頼」はもちろん、その生母の「淀君」さらに、秀吉の正室である「北政所」も健在でした。その北政所は子供が一人も生まれなかったために一時期秀吉から辛く当られ、後年秀頼が生まれてからは、かなりさびしい思いをしています。
また、秀頼を生んだことで生母の「淀君」は立場が良くなり次第に高慢になってきたといいます。
誰でも、立場が上がると高慢になる場合がほとんどですし、淀君だけでなく「石田三成」にもついていけないと感じる武将たちも多かったようです。「北政所」はこの「石田三成」に対しても色々と思うことがあったようです。

それで、淀君にしても、石田三成にしろ、傍若無人な振る舞いに、とうとう堪えられなくなって「北政所」は徳川家に「淀君」に対する苦情を述べたというのです。表には出ていませんけど、「北政所」は没年不詳ですが一説には家康よりも後に死んだという話もあり、「大阪の陣」の後も死ぬまで徳川家の庇護を受けています。(ある説では1624年没:つまり、この時点まで保護されている、この徳川家の保護は事実の可能性が高い)

長くなりましたが、豊臣家が没落する大きな原因となった初めの出来事は「関ヶ原の戦い」でしょう。他の大名、公家、皇族の暗躍もあり得ますが、「北政所」が晩年は「徳川家」に保護されたという事実から【豊臣家の滅亡に「北政所」が大きく関わっている可能性】は十分ありえます。

質問した人からのコメント

2008/7/27 10:01:34

成功 私も小早川秀秋と思うのですが、豊臣恩顧の大名が多く東軍に付いたのは、徳川の以前からの根回しや、石田三成が嫌われていたり、大名同士の利害関係が有りますが、北政所の働きかけも大きな一因の様に思えます (小早川秀秋も北政所の血縁者ですし)。

北政所と言う回答を下さった、human5172さんをBAに選びました、他の回答者の皆さんも有難う御座いました。

ベストアンサー以外の回答

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sem********さん

2008/7/2702:34:23

黒田長政ではないでしょうか?

上杉討伐の」ために動員された兵力も「豊臣恩顧」の武将
が多く動員されていました
かれらを「石田三成の謀反鎮圧」と説得して徳川磐石の
体制を作るための戦いに参加させたことは大きいでしょう
関が原で「三成憎し」や「秀頼様のため」と戦った多くの
武将たちは戦後、現実的な対応として徳川に急接近して
いきます
結果的に長政の調略が大勢を決したといっていいでしょう

ちなみに
小早川秀秋ですが、彼が東軍か西軍どちらにつくか迷って
いた… というのは後世の作り話のようです
当時の記録類を見ても
彼が陣取っていた場所は最初「大谷行部」が駐屯していた
ようなのですが、それを「追い散らして」入城したことが
記されています

又、地形から山の上の陣地から降りて戦闘隊形を整えるまで
(1万5千とも言われる兵力で)相当時間が必要だったはずで
あり、合戦開始の合図を聞いてから即座に行動を開始しても
おそらくは史実どうりの戦闘参加時間になったはずなのです
(しかも明らかに東軍には攻撃できない地形)
家康が鉄砲を撃ちかけたというのは
見方へのパフォーマンスであり、誰も居ない陣地に向かって
(もしかしたら空砲だったかも)撃ったのでしょう
(小早川との密約であれば側近でも知らなかった可能性は
高い)

関が原へいたるまでの行動をみても
明らかに西軍への参加を拒んでいるようで
おそらくは相当早い段階で東軍への参加を決めてはいたが
西軍の支配地域を通過しないと毛利家本隊と合流できない
状態だったため
あえて「旗色を不鮮明」にすることで西軍の襲撃をかわしたのでは
ないでしょうか?

ですが
西軍総大将が毛利輝元であり
中立を貫いた吉川家
東軍についた小早川家
と毛利一族の中立的な生き残り策も
結局、中途半端すぎたのか、中国地方最大の戦国大名であった
毛利家は一転、戦後に大幅な領地の縮小の憂き目に会います

あくまで中立的な立場にこだわり過ぎて時勢の波に乗り遅れてし
まった悲哀を地でいくかたちになってしまいました

min********さん

2008/7/2700:44:16

私も小早川秀秋だと思います。

西軍の中でも相当の兵力を持っていた小早川軍の東軍への裏切りが関が原の戦いの一番のキーポインツだと思います★

考えてみてください。仲間と思って頼りにしてた奴が裏切るんですよ。西軍にとって兵力的にも精神的にも大きなダメージを与えたはずです。

いじょーです。

bir********さん

2008/7/2618:52:05

関が原の戦いで意外なことは

織田有楽斎が東軍で出馬していた、茶坊主として、ではなく一応、戦力として。
有楽斎の子、織田長孝は槍をもって戦い西軍の幹部級の首をあげたとか。

関が原は美濃だが、美濃の侍たちは西軍についたいたのや東軍についたのやで
統一されてなかった、織田秀信は西軍だったが稲葉一族はバラバラ
稲葉一徹の息子・貞通は最初、西軍として戦ったが篭っていた城を東軍に落とされ
降参して東軍につき東軍として戦い手柄を立てて首がつながった、しぶとい。

東軍として関が原に馳せ参じ戦病死した美濃の年老いた侍が妙な名前
「明智小五郎」

kil********さん

2008/7/2616:56:14

やっぱり小早川秀秋ではないでしょうか。東軍に付くと言っていて、西軍にも付くと言った優柔不断な裏切り者として有名ですがやっぱり天下分け目の戦いとも言われる関が原ですらね。 必死で迷ってる時に痺れを切らした家康が小早川の陣に砲撃をし、焦った秀秋が東軍側に参戦して勝ちましたけれども、歴史上では裏切り者扱いですからね。

ハルさん

2008/7/2616:48:15

小早川秀秋でしょう!

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