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人間の原罪論を示す聖書個所を教えてください

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ID非公開さん

2017/10/1100:05:26

人間の原罪論を示す聖書個所を教えてください

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bhxqq22さん

2017/10/1116:32:32

旧約聖書ではないのですかね
飲めよ歌えや進めるがあなたにその人の心は向いてはいないかもとか
ご馳走食べる前にはのど元にナイフを当ててみよとかなるほど・・
ただほど高くつくので

  • bhxqq22さん

    2017/10/1116:33:44

    まあよくわかりませんがヨブ記にでもほかの宗教だからとか避けて通るような差別するなもあるのですが

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cesfunctionさん

2017/10/1306:31:22

原罪論の原点、罪が入ってきた箇所を見てみましょう。
それは、アダムとイブがエデンから追い出されるきっかけとなる話
手を付けてはいけないといわれていた禁断の実を示す箇所から始まります。

"善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ"(創世記2:17)

創世記3章では、その実を食べる。
そこに出てくるのは、
誘惑する(蛇)
わかっていて、食べた(イブ)
食べることを進めた(イブ)
ダメだとわかっていて、それを食べた(アダム)

Gen 3:1  さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」 
Gen 3:2  女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 
Gen 3:3  しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」 
Gen 3:4  そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。 
Gen 3:5  あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 
Gen 3:6  そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 

これが原罪が人に入ってきた箇所であり、人に死が入り込んできた理由です。

質問は、原罪論を示す聖書箇所とあります。
つまり、イエスがこの死の原因である人に入り込んだ罪を取り除くためにやってきた救世主であると示されている箇所です。

新約聖書中には、アダムとイエスの関係を示す箇所がありますから、それが”論”を示す箇所になるのではないでしょうか。

dmqeonさん

2017/10/1223:02:42

ローマの信徒5に加えて
ヘブル人への手紙9:27
「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、
人間に定まっているように、人間は必ず死後に復活させられ、御子イエスによって審判を受けます。しかし イエスをキリスト(救世主)と信じ、その教えに従う者は裁きを受けず、天国へと召されます。」

yoejpjpさん

2017/10/1220:11:52

原罪論の元となるのは『創世記』の第2-3章です。
アダムとエバが「善悪の知識を知る木」なるものの実を,
神の言いつけに逆らって食べた事が原罪の概念の象徴です。
恐らく古代の中東の人々は,ちょうど同じ頃…か少し後…
インドでゴータマ・シッダッタが考えたのと同じ
「人は何故苦しむのか?
人は何故死なねばならないのか?」
という疑問を考えたのでしょう。
しかし釈尊ほど哲学的に解決策を講じることなく,一つの神話として説明したのでしょうね。
初めは恐らく「ウサギの目が赤いのは南天の実を食べたから」のようなたわいもないお伽話だったのではないでしょうか?
それにユダヤ人たちはより深い人間共通の特性,弱さ,
そして神との関係などの寓意を織り込みます。
ところが何故かユダヤ人たちはこの問題をその後ほとんど忘れてしまいます。
ユダヤ教は原罪の概念を発見していながら,それを教えの中で重要視することはほとんどないのです。
これを掘り返したのがパウロです。
これは私の持論ですが,かなり自信を持った持論です。
パウロはキリスト教徒たちを迫害,処刑している内に疑問を持つようになるのです。
ナザレのイエスとやらの派閥の信者たちは,どうして荒唐無稽な異端的教えを信じて迫害まで絶え得るのか?
恐らく迫害されているイエス派の言い分を聞いている内に
何かそこに漠然と筋の通ったものを感じ,自分自身のユダヤ教信仰に対する自信が揺らぐのではないでしょうか?
この期間が『使徒言行録』にある,馬から落ちて眼が見えなくなる話に象徴されている史実なのではないかと思うのです。
パウロは元々ファリサイ派の律法学者としての教育を受けていますから
異端と思われていたイエス派の信仰に理に適ったものがあるか
一生懸命研究し直し始めたのでしょう。
そして行き着いたの原罪論とイエスによる罪からの償いです。
それに思いつき,それまでのファリサイ派のユダヤ教を捨てた時こそが
『使徒言行録』で眼から鱗が落ち,見えるようになったという逸話です。
もちろん象徴的な寓話です。
この辺りのパウロの哲学は,多くのパウロ書簡のいろいろな場所にちりばめられていますが,最も端的にまとめられているのは『ローマの信徒への手紙』第5章
「このようなわけで,一人の人(アダムのこと)によって罪が世に入り,
死はすべての人に及んだのです」
これこそ具体的に原罪の概念を論じた世界で最初ではないでしょうか?

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