ここから本文です

イエス様は言われる、「父の内に私があり私の内に父がある」

billiejean_0826さん

2017/11/1400:08:29

イエス様は言われる、「父の内に私があり私の内に父がある」

これは2位が一体と考え手もいいと思います。そこで疑問が一体とはぴったりいったい?

補足これはよく言われることで、聖書の中でもイエス様が一手おられること。
しかしそこで疑問が、一体とは一つの体の内に父と子があるのか?イエス様と御父が1つというのは神の子と御父の絆が強く一体であるというたとえなのか?どのような意味なのでしょう?

閲覧数:
65
回答数:
4

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

fake_basterさん

2017/11/1407:20:17

ヨハネの福音書14:11「わたしが父におり、父がわたしにおられる…」
これのことですか。
福音書はイエスのひととなりを信徒らに説明するために伝記風に書かれた物語です。イエスが直接語った言葉を聞いて記録した実録ではない。イエスがメシアであると弟子たちが語り始め、パウロが宣教に加わり強化したのがキリスト教の始まり。ユダヤ教徒のうちにこのメシアが異教徒の支配を終わらせて神の国を来たらせてくれると信じるキリスト派というべき集まりが出来ていったのが初代の教会。

各地に教会で、それではそのメシアであるイエスとはどんなものなのか、知りたい、教える必要がある、というので福音書が書かれ教会の会衆に説明されることになった。それが1世紀の後半から終盤、つまりイエスの死後遅くも50年後ごろまで。最初から教義まで固まっていたわけではなく、つまり後に主要な教義となる三位一体がはっきりするのは3世紀ごろで、福音書が書かれた時はまだ明確な表現はなかった。

それで、イエスは神の子という信仰が出来たのだが、イエスは人間であって神ではないと考え主張する者も居た。また神の子では神が2人になってしまって唯一の神概念と矛盾してしまうと考える者も出てきた。ユダヤ教はだれでも唯一の神を信じていたというわけではない。ヤハウエの神についても他に神が居ると考え---いや信じる者はいたのだ。当時の人間には現代人と違って神が居るかこと問題にならない自明のことだったが、どんな神かはさまざまな洞察があった。ギリシャほどではないがユダヤでも多神という考えに至る人がいた。

キリストに戻って----余談として当時キリスト(メシア)と自称する者はたくさん出た----イエスをキリストとしたが2人の神は具合がわるい。そこで福音書の時点でははっきり一体と言わなかったのを、百年以上の工夫を経て、位格が一体だという苦肉の理論を立てたのだった。聖書にはハッキリとその言葉が書いてなかったが、のちにラテン語聖書を作ったときに‘書き加え’られもした。(現代の多くの聖書ではまた除かれている。)

お勧めしたいのは、聖書だけ読んで勝手な想像をしても実のある知識・信仰に至らないから、関連資料を読むということ。豊富な知識のもとに自分で考えるのが大事だとおもう。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

この質問は投票によってベストアンサーに選ばれました!

ベストアンサー以外の回答

1〜3件/3件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

プロフィール画像

カテゴリマスター

2017/11/1719:18:02

doltotiさん(2017/10/25/00:31:43)は
罪の赦しを乞う儀式は、イエス・キリストによって全うされたと考える。もはや人の罪は完全に赦され、死を見ることがない。罪が残る不完全な肉体は眠りにつくとしても、罪のない完全な体とともに甦る。そのことを信じる人は神と共に生き、信じない人は永遠に滅ぶ。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q111811618...

thelamb827さん

2017/11/1410:19:15

父と子と聖霊は一体ですよ。

「主」と「イエス」が同一であることも
聖書からわかります。

doltotiさん

2017/11/1409:39:51

fake_baster さん、
> 福音書が書かれた時はまだ明確な表現はなかった

それは読み込みが浅い。関連資料を読むのも結構だが、まずテキスト自体を丹念に読み込むことがなければ、何も始まらない。

すでにマルコ福音書の段階で、キリスト論およびその称号をめぐって「イエスはいわゆるキリスト以上の者、神の子以上の者である」という主張が見られる。マルコ福音書は復活信仰を匂わせつつ、その判断を読者に委ねるというスタイルでもって終わる。

そのマルコ福音書も、今や Q 資料説は崩壊しつつあるが、受難物語パートはもともと独立していただろうと考える研究者は少なくない。その受難物語は詩篇 22 篇の「義人の受難」を、ゼカリヤ的に「神の受難」に言い換えたものが基調となっており、もしかすると過越祭のたびにキリスト教徒が神殿の片隅で朗読していたかもしれない。

となると、パウロ書簡が遅くともイエスの死後 10 年、考えようによっては数年以内に書かれるようになることから、「イエスの受難と復活」を「神の受難」とする考え方は、相当早い段階で生じていたと思われる。

むしろ、パウロはファリサイ的な神中心主義により、父なる神とイエスとを区別しようとした人だ。そのパウロでさえ、伝承や聖霊論を引き合いに出すときは「神の霊」と「キリストの霊」を同一視している。それは、神の像がキリストであり、キリストの像が人間であるという当時のユダヤ思想とも関連するだろう。

では、これらを体系的にどう整理したらいいのか?というのが三位一体論になっていくわけで(イエスもパウロも曖昧さが多いし、矛盾もある)、その体系化には長い時間を要したと。そういう話。

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

5文字以上入力してください

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。