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昭和に発掘された阿武山古墳は藤原鎌足の墓という説が有力です。しかし、鎌足・不...

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ID非公開さん

2018/1/417:54:34

昭和に発掘された阿武山古墳は藤原鎌足の墓という説が有力です。しかし、鎌足・不比等の時代から若干の浮き沈みや闘争はあったにしろ、一貫して日本の権力の最中枢にあった藤原氏の祖の墓が、ど

こなのかはっきりしていなかったのはなぜなのでしょうか?

むしろ権力の正当性の裏付けや格式を示すため代々篤く祀って聖地化されている方が自然な気がするのですが。古代は墓に祀ってしまえば子孫はあまり顧みないものだったのでしょうか?

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cel********さん

2018/1/1017:12:47

一般論としては、埋葬されているのが誰かがわかるような墓が広まったのは鎌倉~室町時代ぐらいです。だから、例えば藤原道長の墓は、他の摂関家の面々の墓と同じく、現在宇治陵と呼ばれるあたりにある墓の一群のどれかであるのは確かですが、それらの墓を維持管理する浄妙寺という寺が廃絶してしまったので、どれかわからなくなっています。現在、鎌倉にある源頼朝の墓とされているものも、実は江戸時代に建てられた供養塔のようなものです。
つまり、墓自体からは埋葬者がわからないので、子孫が延々と「この墓は誰が入っている」というのを伝えていくのが何らかの理由(例えば、伝えるべき子孫がいなくなる、経済的に維持できなくなる、など)で途絶えると、文字の記録などから「この当たり」というのはわかっても、具体的にどれかはわからなくなる、というのは極々普通に起こり得る事です。
これは、古代でも中世でも同じです。

これが一般論です。

藤原鎌足の墓については…

藤氏家伝の大織冠伝では、山階精舎にあったように読めます。(原文は↓の右側)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879458/182

一方、正史の最後のものである日本三代実録の天安二年(858年)十二月九日の記事に『贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足多武峯墓在大和國十市郡』とあり、同様の記述は貞観五年(863年)二月七日の記事にもありますので、日本三代実録が編纂された10世紀初めの時点では、現在の奈良県桜井市の多武峰にあると認識されていたのは間違いありません。貞観五年の記事は「鎌足の墓の周囲の樹木を伐採する事を禁じた」というものですから、おそらくどれが鎌足の墓かもわかっていたのでしょう。
因みに、多武峰には鎌足を祭神とする談山神社が現在もあります。裏の御破裂山の山頂には「鎌足の墓」とされるものも一応ある事はあるようです。

「阿武山古墳が鎌足の墓ではないか」という話は、鎌倉時代に成立した「多武峯縁起」に、摂津国嶋嶋下郡阿威山にあった鎌足の墓を鎌足の子定恵が多武峯に改葬した、とあり(原文は↓)、「阿武山古墳=阿威山にあった鎌足の墓」ではないか、とある為です。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879811/83

あまり詳しくは知りませんが、多武峯縁起の書いてある通りだとしても、「7世紀に改葬されたという話が鎌倉時代に記録されている事をどう考えるか」(どこまで信用できるのか)、「阿武山古墳で遺体が見つかったのなら、“改葬された”という多武峯縁起の記述とはいまひとつ合わないのではないか」という気がしないでもないです。

いずれにせよ、9世紀の時点では、(改装前か後かはともかくも)「鎌足の墓は多武峯にある」
と認識されていたのは間違いないですし、談山神社(神仏習合段階では妙楽寺でもあった)が藤原氏の祖先の廟として一定の勢力を維持して来たのも事実です。

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質問した人からのコメント

2018/1/11 12:40:42

詳しい回答ありがとうございます。
やはり、後代とは墓に対する考え方の違いもあるのですね。

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pin********さん

2018/1/510:37:42

阿武山古墳から「大織冠らしきものと、玉枕」が出土したから、、被葬者は「藤原鎌足」は、危ないですね!
「日本書紀は病だと言っていますね」。
「日本書紀が引用している、日本世記では、遺骸を山科の南の山に移して殯した」と言っています。
「藤氏家伝」では、山科精舎(興福寺の前身)で火葬。
「談山神社の縁起」では、摂津の安威にあったのを、多武峰に改葬した。
という状況なのですが、阿武山古墳の被葬者は、埋め戻されたのですが、X線写真の鑑定から、「高所からの転落による背骨、及び肋骨の骨折で、ほとんど半身不随の状態で、しばらく生存していたために、肋骨に癒着が認められる」と言われています。
「病でもなく、火葬でもなく、改葬されているわけでもなく、茨木市と高槻市にまたがる山中で、山科からは相当離れています」。
これでは、どない考えても「藤原鎌足」は無理です。
では余談ですがもう一つ!「天智」の事です。
「日本書紀天智紀」は、「天智も近江京で病気で死亡」だと言っています。
「日本書紀天武即位前紀」は「臥病したまいて痛みたまう事甚だし」です。
「扶桑略記(天智略伝)」では、「天皇、馬で山階(山科)に行幸したまま帰還せず、諸皇が捜索したが見つからず、沓の落ちていた所を山陵とした、殺害されたのかもしれない」と言っていて、天智が薬狩りの最中に事故に巻き込まれたのではないかと考えられています。
「天智」の方が、阿武山古墳の被葬者に近い状況です。
前振りが長くなりましたが、質問者の方への回答です!
「日本書紀」の言う、「乙巳の変、大化の改新、白村江の軍隊派遣、近江朝の開設」と列島の歴史を展開して来た「中大兄(天智)-鎌足」という偉大な二人組の墳墓の状況としては「訳の分からんお粗末な限りです!」。
この時代の歴史展開は「日本書紀」の言う様な「天智―鎌足」が主導(主役)したという展開ではなく、別の政治集団(九州倭国)が存在していたために、この様なことになっているのでは無いかと考えているのですが、如何なものでしょうか!
トンデモナイ考え方で「天智=鎌足」、「天智―藤原サイドでは天智と呼び」、「九州倭国サイドでは、鎌足」と言っていたのではないかと考えています。
追加で余談をもう一個、「乙巳の変、大化の改新は、天智―藤原系の持ちあげの為の改編」、「近江朝の開設は天智―大友の乱」、「壬申の乱は、九州倭国VS天智―藤原系の列島統一の一大決戦」、「不思議なことに、壬申の乱でいったん途切れた、天智―大友の皇統が、奈良朝政治史の暗闘で、光仁(天智の孫)、桓武の時代に復権、歴史の改編は彼らの思いのまま」です。

aka********さん

2018/1/500:52:52

色んな天皇の墓も不明です。

ruh********さん

編集あり2018/1/500:34:04

鎌足の胴塚として前から、知られてはいましたが、興福寺縁起には頭部だけを正式な墓に納めたとされていたからです。

発見されたのは完全な遺体で、違っていましたから、記録だけ残して埋め戻されました。

結局不明なままです。

tis********さん

2018/1/421:59:02

奈良県桜井市多武峯(とうのみね)に藤原鎌足を祀る談山神社(だんざんじんじゃ)と言う大きな神社があります。
ここに678年、鎌足の息子不比等は、阿武山古墳から鎌足の遺骸を移し、墓としました。
明治維新後の神仏分離までは多武峯妙楽寺と言うお寺で、その名残で本殿に木造の十三重塔(日本でただ1つの建造物)が残っています。

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