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晩年の信玄や謙信が国力の差があったにもかかわらず、信長との同盟関係を破棄した...

s52********さん

2018/4/209:39:25

晩年の信玄や謙信が国力の差があったにもかかわらず、信長との同盟関係を破棄したのはやはり何らかの勝算があったからじゃないんですか?

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nat********さん

2018/4/503:29:23

私は、信玄は最後まで、京までは目指してはいなかったと思っています。
旧今川の勢力圏を支配下に入れることが目的だったと思っています。

信玄が長生きして健康なら、後顧の憂いである北条との関係を修復して、
徳川家康の息の根を完全に止めることを優先させたでしょう。

そこで信長本隊が出てこれば決戦・・・・・
(長篠の戦いと同じ構図ですが
信玄が鉄砲隊に突撃なんてするとは思えない
勝頼は15000程度しか動員できなかったが
信玄はその倍以上動員でき戦術も神がかっていた
史実の長篠の戦いは鉄砲三段撃ちは疑わしく
織田徳川連合軍がただ数の差で勝っただけとみる)

畿内の戦を優先して家康を見捨てれば
信長の名声が下がり、信玄得意の調略がしやすくなる・・・

信長を評する声に、
「経済力の差があるから絶対に勝てない」
「兵農分離をしてないから勝てない」という
意見が多いですが、

信玄も兵農分離は進めており、

また、戦国時代終末期は
太平洋戦争のような近代的総力戦とは違い、
まだ「決戦の敗北」での名声の低下による影響が強かった
ギリギリの時代であるとみています。



信玄は地理的にはかなり不利でしたが、
日本海側を押さえていた謙信の方が有利だったと思います。
実際に織田軍と戦って圧勝していますし(信長は不在)、
もしあのような「決戦級の戦い」がそれ以後も行われ、
何回も上杉勝利に終わっていたとしたら、
畿内の諸勢力も含めて、すぐ上杉になびいていたでしょう。

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pea********さん

2018/4/209:57:01

信長包囲網を当てにしたのでしょうね。関ヶ原のとき、石田三成は20万石ほどですが、毛利や上杉と組んで250万石の家康に決戦を挑んだのと構造が似てると思います。

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