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関ヶ原の際、秀頼の取り巻きは「家来同士の戦い」としました。仮に石田三成が東軍...

pea********さん

2018/4/1600:01:19

関ヶ原の際、秀頼の取り巻きは「家来同士の戦い」としました。仮に石田三成が東軍を撃破し退却させても、その後秀頼に素直に従う気になったでしょうか。

味方が必死に戦っているのに大坂城でのんびりされては、頭に来ないのでしょうか。

補足やはり、守役の前田利家が死去、跡継ぎの前田利長を失脚させ豊臣を骨抜きにした家康が一枚上手だったのでしょうか。
加賀大納言がいれば「家来同士の戦い」と称して何もしないような真似はしなかったと思います。

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ベストアンサーに選ばれた回答

mrt********さん

2018/4/1619:01:20

そもそも、秀吉が定めた惣無事令を破って戦乱を先導し、挙兵したのは石田三成です。
秀頼の後見人・家康と豊臣恩顧の武将たちが賊徒である上杉を征伐するために大坂を留守にした隙をついて佐和山で謹慎を申し付けられているはずの三成ら西軍が大坂で挙兵。我が物顔で市中を制圧して、豊臣家臣の妻子を人質に取る暴挙にでる。そんな輩が豊臣のためだなどと寝言をいっても聞き入れると思いますか? 豊臣家は一貫して石田三成の要請を突っぱね、戦後も三成を謀反人と称していますけど、それは徳川に気を使ってとかではなく、豊臣家にとって三成は謀反人以外の何ものでもなかったからだと思います。

それに、関ヶ原って明らかに家康に政争で敗れた三成の私利私欲に端を発する権力争いですよね。全国を巻き込む大乱を起こして一体豊臣家に何の利益があるんでしょうね? 豊臣家の威光が弱っているということをわざわざ諸侯に知らしめるだけじゃないですか。 三成に義侠心があったというのは後世の創作の話で、仮に関ヶ原で西軍が勝利しても、三成は秀頼を傀儡にして権力を欲しいままにしたと思いますよ。

  • 質問者

    pea********さん

    2018/4/1708:27:44

    確かに、前田や上杉が徳川の犬びなっても政治情勢でしかたないような気がします。
    次は豊臣を狙う気じゃな!と挙兵するのは問題だと思います。

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質問した人からのコメント

2018/4/21 02:29:38

みなさま、回答ありがとうございました。

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jaa********さん

2018/4/1614:22:49

戦後に家臣同士の戦いにされたのは石田が敗れたからで、つまり石田は秀頼に咎が行かないようにとかげの尻尾切りにされたんだよ。
関ヶ原が単なる石田の野心のためなら宇喜多みたいな準豊臣家並みの大名が従う訳がない。

大坂城でのんびりというか、この戦いは徳川家康討伐の戦いなんだから秀頼自身がわざわざ出なくても良いだろう。
歴史にだって主君が戦場に立たない戦争は幾らでもある。
その非難はむしろ毛利輝元に向けられるべきで、彼は大坂城な居ながらも地元で周辺諸国に派兵しているんだから、そんな力があるなら関ヶ原に兵や将をもっと寄越せだっただろうな。

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ban********さん

2018/4/1612:07:15

のんびりって、秀頼は幼児ですよ。何をさせようっていうんですか?
石田三成が、判断力のない幼児に鎧を着せて戦場につれて来たりすれば、それはもはや「誘拐」であり「人質」です。そんな児童虐待をする正義の軍なんて、聞いたことがありません。
幼い秀頼が、自分の意志で関が原に来るはずがないのは明らかですから、前線の福島や細川・黒田が、それで「しまった、急いで西軍につかなければ」と考ええを変えるわけがありません。
かえって「おのれ卑劣な、何としても秀頼公を助け出さねば」と火に油を注ぐでしょう。
三成が、大坂で諸将の妻子を大坂城に収容しようとして大騒ぎになり、抵抗して自害する者まで出した事件を覚えていますか(細川ガラシア事件です)。
あれは「正義」を標榜する三成にとって痛恨事でした。
「豊臣の家臣の妻子を大坂城で保護するのに何の問題がある」という三成の理屈は全く通用しない、「戦のまえに敵の妻子を捕らえて人質にしようとした卑怯者」になってしまった。三成の正義がひとりよがりのニセモノだ、というのが露呈したあの事件で、三成の負けは決まりました。
秀頼を戦場まで連れ出すとすれば、この失敗を性懲りもなく繰り返す愚挙にしかなりません。たとえ千成瓢箪を立てても、それで「おお、秀頼公の心は西軍にある」などと畏れいる東軍の武将がいるはずがありません。

秀頼は西軍の大将ではありませんし、関ヶ原は豊臣対徳川ではありません。
あくまで豊臣家臣団の分裂による内輪もめなんです。殿様である秀頼はこういうとき、どちらに味方してもいけません。黙ってみていて、最終的に勝ったほうに「よくやってくれた」と褒美を上げればいいのです。
殿様というのは、そういうものです。仮に幼くなかったとしても、どっちかに肩入れして自分で戦場に出向いたりするような軽率な殿様は、 長くありません。

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yos********さん

2018/4/1611:48:39

秀吉の死後すぐに前田利家を担いで簒奪を図ったのが石田三成です。

三成に秀頼への忠義など全くなく、従う気はなかったでしょう。
権力を奪われて傀儡となって、いずれ殺されています。

関ヶ原の際に秀頼母子はむしろ家康に親しみを寄せており、大坂城から出られては東軍と合流される惧れがあったため、頭にくるどころか出てきて欲しくないというのが本音でしょう。

秀頼の取り巻きたちは三成の黒い魂胆を承知していたので、「家来同士の戦い」といって秀頼に類が及ばないように予防線を張っていたのでしょう。


加賀大納言が健在ならば三成と結んで秀頼の排除を図っています。

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kag********さん

2018/4/1606:45:07

秀頼が幼かったということがあったでしょうね。

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hig********さん

2018/4/1606:33:18

幼児ですし主君です。大義名分が喉から手が出るほど欲しい石田三成はともかく、誰も秀頼の出陣を望んではいないでしょう。
各武将は思い思いに働き、手柄を上げたいわけで、戦場に戦力にもならない秀頼が出張ってきてはかえって迷惑だったかもしれません。

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