ここから本文です

第二次世界大戦のドイツとその周辺国についての疑問です。

アバター

ID非公開さん

2018/4/2501:29:34

第二次世界大戦のドイツとその周辺国についての疑問です。

① ドイツはアンシュルツでオーストリアを併合しましたよね。第一次世界大戦でもドイツとオーストリアが一緒になって戦ってたようですが、この二国間の関係はかなり深いのですか?また、現在での関係はどうなってるのでしょうか。

② ドイツはチェコスロバキアを解体しましたよね。手始めにズデーテンラントの併合からしたのだと思いますが、なぜチェコスロバキアを解体する必要があったのでしょうか。また、なぜズデーテンラントから合併を始めたのでしょうか。
そして、なぜズデーテンラントはあんな蹄鉄みたいな形をしているのですか?

③ドイツはラインラント進駐を行いましたよね。
イギリスとフランスは抗議したと思いますが、なぜ戦争する覚悟で抗議しなかったのでしょうか。また、なぜ協商国はラインラントの再軍備を禁止したのでしょうか。

④ドイツはダンツィヒを手に入れたかったようなのですが、なぜダンツィヒを手に入れたかったのでしょうか。また、ポーランドはソ連にとってどのような存在だったのでしょうか。

以上です。
よろしくお願いします。

閲覧数:
179
回答数:
3
お礼:
500枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

2018/4/2522:19:26

1)実はさほど深くなかった
第一次世界大戦のオーストリアは中東欧に広大な領土と人口を抱える大国でした
なので無理にドイツと付き合う必要もなかった
一種の「ミニEU」だったわけです(ドナウ帝国といいます
話が変わるのが戦後
東欧諸国が独立し、それまでのマーケットを失ったオーストリアはドイツとの同盟(併合)に活路を見出す必要に迫られました
例えば世紀末ウィーンと呼ばれた時期のウィーンの人口が220万人
戦後のそれが150万人にまで減少しています
これは帝国の中心としての立場を失ったことを意味しています
この辺の混乱を経験した人の1人にのちに経営学者として名を馳せるピータードラッカーがいます
彼の自伝にも少し書いてあったはずです

2)ズデーテンにかぎりませんが
東欧は土地が余っていたり、モンゴルやトルコとの戦争もあり人口が多く、技術水準の高かったドイツ系移民を推奨してきた歴史があります
ズデーテンも工業地帯であり、工業に強いドイツ系移民を受け入れてきた歴史がありました

3)英仏が戦争で疲弊していたから、です
要するに日和見したわけです
先にオーストリアの話をしました
ドイツの東に大国オーストリアがいたら同盟するなりして牽制するという手もあるんですがそれが不可能になってしましいました
また特に英国にドイツへの同情論があったともされます

この回答は投票によってベストアンサーに選ばれました!

ベストアンサー以外の回答

1〜2件/2件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

lom********さん

2018/4/2510:03:01

①オーストリアはドイツ人が住みドイツ語を話す地域です。神聖ローマ帝国(ドイツの前身)内でオーストリア公国とプロイセン王国の主導権争いが起き勝ったプロイセン中心でドイツが統一され、負けたオーストリアはドイツから弾き出されて独立した経緯があります。当時のオーストリア人には同じドイツ人という意識があったのでしょう。第二次世界大戦後にオーストリアとドイツは二度と合併しないという約束が為されたと聞きますので現在は表立ってそのような動きはないと思われます。


②チェコスロバキア西部のドイツとの国境地帯にはボヘミア王国時代からドイツ人が住み着いていました。ボヘミア王国は神聖ローマ帝国の一部であり、その後のオーストリア帝国の一部にもなっていました。第一次世界大戦でオーストリア帝国が解体されチェコスロバキアが独立するときに、このドイツ人が住む地帯(ズデーデン地方)はドイツに組み込まれたがっていましたが、反対を押し切りチェコスロバキアに含まれることになりました。ナチス・ドイツはまずそのドイツ人居住地域を併合しました。その後チェコスロバキアをハンガリーと分割した理由は、チェコという地域が旧オーストリア帝国時代から工業地帯であり、戦車などの軍需品生産地帯を手に入れたかったのではないかと言われます。


③先のズデーデン地方割譲を認めたこともそうですが、イギリスとフランスは第一次世界大戦の痛手が残っていて、若年人口が減少し、戦争を避ける風潮が強まっていました。ラインラントに始まり、オーストリア併合、ズデーデン地方割譲、メーメル地方割譲と譲歩を繰り返した結果、第二次世界大戦へと至ります。これを「宥和政策」と言います。ズデーデン地方割譲を認めたイギリスの首相は帰国したときに平和を実現したとして賞賛で迎えられたそうです。現在ではこの宥和政策は悪例とされ、アメリカなどがその反省から疑わしければ早めに先制攻撃をするようになりましたが、その行き過ぎも近年指摘されることがあります。


④ダンツィヒを中心とする西プロイセン地方は複雑な歴史を持ちます。東プロイセン地方が古くドイツ騎士団が入植して作られたドイツ人の地であったのに対して、西プロイセン地方は古くはポーランド王領でありポーランド人とドイツ人が混在していて、両国の領土を行ったり来たりしていました。18世紀後半のポーランド分割以来はドイツ(プロイセン王国)の領土となっていましたが第一次世界大戦のドイツ敗戦により西プロイセン地方はポーランド領土となりました。それによりドイツの東プロイセン地方が飛び地となり、往来を妨げるポーランド領は「ポーランド回廊」と呼ばれました。ポーランドは海への出口を手に入れて嬉しかったのですが、ドイツにしてはドイツ領土を横切るポーランド回廊が邪魔で仕方なく、本来はドイツ領土だとの想いもあり、その回復を念願としていました。なお、ドイツにとってもソ連にとってもポーランドは昔から分割して併合してきた国であり、第一次世界大戦の民族自決で復活したものの、また隙あらば併合しようと狙っていた存在だったと考えられます。

yuu********さん

2018/4/2508:02:18

①もともとオーストリアは、ハプスブルク家のオーストリア帝国の本拠でした。オーストリア帝国の前身は神聖ローマ帝国で、中世において神聖ローマ帝国とはドイツ(地方)そのものでした。
ところが、宗教戦争や領邦国家の成立、そして、ナポレオンによるライン同盟の成立で、神聖ローマ帝国は解体、以降のハプスブルク家の帝国はドイツでの地盤を失いオーストリア帝国と称するようになります。
そして、普墺戦争の敗北で、オーストリア帝国はドイツ地方への影響力を喪失します。統一への枠組みから弾かれた、という意味です。後の普仏戦争の勝利で、プロイセン主導のドイツ帝国が誕生しました。
オーストリアも、ドイツ人(ドイツ語を保護とする人々)です。オーストリア生まれのヒトラーが、第一次大戦で”ドイツ(帝国)軍の兵士”として参加したのも、自分はドイツ人である、という意識からでした。
オーストリア帝国は多民族国家で、多くの人々は分離・独立を望んでいましたが、オーストリア(地域)のドイツ人もまた国民国家であるドイツとの合邦を望む声が少なくありませんでした。
隣国関係としては良好な部類と言えます。主権で争いなどもないのですが、第二次大戦の心理的影響は引き摺っています。また両国の合邦化は明確に禁止されています。

②解体そのものが目的ではありませんでした。
欧州は民族や語圏が複雑に入り乱れている土地が数多あります。第二次大戦に至るまで、バルカンはユーゴ内戦が落ち着くまででしたが、どこも比較的多数の民族はその地域内で主導権争いをし、一方で近隣の国民国家は自国領に組み込もうとしました。
ズデーテンラントも、ヒトラーによるオーストリア併合と同じで、そこはドイツ人が多く住んでいたからです。
ズデーテンラントがあのような形なのは、ドイツ人の根幹であるゲルマン民族はどこからやってきたかはさておくとしても中世の頃にはライン川一帯からドイツ中部辺りに住んでいました。中世の頃は東へ進出していたのです。プロイセンの母体は開拓を推し進めていた騎士団領でした。ズデーテンラントもそうして周囲から入植していたドイツ人が多数居住している地域だったのです。

③第一次大戦の傷は、勝利国の英仏とて深刻でした。戦争の後遺症から立ち直るのに苦労しているところで、人口・出生率においては、ドイツの方が優っていたのです。
戦争をする覚悟で、となるとその場合は英仏がドイツへ攻め込む前提となります。
ところが、英仏両国は西部戦線での悲惨な消耗戦、それも攻撃側は犠牲が大きいとの記憶が色濃く残っていました。
英仏両国は「ドイツがフランスを攻撃してくる場合」を想定も覚悟もしていても、「英仏軍がドイツへ侵攻する」ための準備はしていませんでした。攻勢計画もなく、それどころかフランスはマジノ戦線の構築に資源と予算の少なからずを注いでおり、「ドイツ領へ侵攻する」余裕などありませんでした。この攻撃を躊躇わざるを得ない実情は、第二次大戦でドイツがポーランドに侵攻したので、参戦したは良いが自分たちから手出しができない状況に陥る、という事態が出現します。

④ダンツィヒは第一次大戦の敗北でも残ったドイツ領です。ただ、「ポーランドにも海への出口を与えるべきだ」と考えた米大統領ウィルソンの強い後押しもあって、領土を与えられた結果、ドイツ本土とダンツィヒは切り離されてしまいました。この切り取られてポーランド領土となった土地をダンツィヒ回廊と言って、ヒトラーが返還を求めたのは、ダンツィヒではなくて、ドイツとダンツィヒを結ぶ回廊です。
ヒトラーにとって、ダンツィヒ回廊は目的だったのではなく、真の目的はポーランドの消滅でした。これはモロトフ・リッベントロップ協定、いわゆる独ソ不可侵条約締結時に、独ソの間で合意事項となっていました。
ポーランドは近代にドイツ、ロシア、オーストリアの三帝國に分割されて以降、大部分をロシアによって支配されていました。
そして、第一次大戦後にポーランドは独立を果たします。一方でヒトラー政権下のドイツがそうだったように、ポーランドもまた貪欲に周辺地域を己の領土に食いこもうとしました。第一次大戦終了後から、第二次大戦勃発まで、ポーランドはソ連や(当時はほぼ独立していた)ウクライナと戦争をしています。
ソ連にとって、ポーランドは自国の領土をつけ狙う目障りな国だったのです。これがためにドイツ侵攻を受けてこれ幸いにとソ連もポーランドの東半分を占領しました。

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる