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乙巳の変は、蘇我氏が天皇をも脅かすような実力や勢力を示すようになり、天皇家側...

Victorさん

2018/7/1307:58:56

乙巳の変は、蘇我氏が天皇をも脅かすような実力や勢力を示すようになり、天皇家側の一部急進派が引き起こした政変と理解してよろしいでしょうか?

ただ、蘇我氏が自ら天皇の上に君臨しようと

いう野望はなかったと理解してよろしいでしょうか?

蘇我氏が悪玉に描かれるのは、
乙巳の変を正当化する為
天皇を中心とする
中央集権国家を
正当化する為という理解で
よろしいでしょうか?

とすると、

天皇家側は、
蘇我氏の何に脅威を感じたんでしょうか?

天皇家側が持っていない
蘇我氏側の
権力の源泉は
いったい何だったんでしょうか?

さらに、乙巳の変で
重要な役割を演じた
中臣鎌足は
蘇我氏を滅ぼした功績により
天皇家に重用され
藤原家の栄華を
乙巳の変で獲得したと
理解してよろしいのでしょうか?

補足蘇我氏=天皇家

ということなら
天皇家の本流でない勢力である
蘇我氏を滅ぼした。
という理解でいいのでしょうか?

蘇我氏は天皇家だが、
邪道な天皇家だから
始末したということでしょうか?

邪道だから始末したのか?

天皇本家の脅威になったから
始末したのか?

脅威なら何が脅威だったのか?

邪道なら何が邪道だったのか?

教えて下さい。

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ham********さん

2018/7/1312:11:51

乙巳の変は、天皇家vs蘇我氏という視点ではないということですね。
蘇我本宗家は、皇極帝の次は、古人大兄皇子を即位させようとしていました。古人大兄皇子は蘇我入鹿の従兄弟になります。蘇我本宗家に野心が無いかと言えばウソになりますが、その野心というのは、蘇我入鹿が皇位を狙うのではなく、蘇我系皇族の繁栄、即位です。確かに聖徳太子の息子、山背大兄皇子を殺害するという蛮行をしますが、あくまで古人大兄皇子を即位させるのに山背が邪魔だったからで、入鹿が皇位を望んだ訳ではありません。
この時代は例え蘇我氏の権力が強くても、大王には豪族たちの合意が必要ですし、大王にもそれなりの資格が必要です。

乙巳の変というのは、蘇我本宗家、蘇我系皇族vs傍流皇族、傍流蘇我氏、中級豪族という構図なんだと思います。
つまり、中大兄皇子のような蘇我系ではなく即位の目がない皇子、中臣氏の中でも本家ではなく出世の見込みが無い豪族、蘇我倉山田石川麻呂のような蘇我氏の傍流達のテロだと考えれば分かりやすいのではないかと思います。
中大兄皇子らにとって、蘇我本宗家が脅威だった訳ではなく、自分達にとって邪魔な存在だったという事です。
中臣鎌足が後の藤原氏の繁栄の基礎を築いたか?と言えば違います。藤原氏の繁栄は平安時代に入ってからです。乙巳の変後、鎌足はあくまでも中大兄皇子の側近として活動しただけです。朝廷内には蘇我氏がまだいましたし、鎌足以外の中臣氏も活躍してます。
藤原氏は奈良時代を経て、平安時代に基礎を築いたと考える方が自然ですね。

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cor********さん

2018/7/1312:06:22

西暦641年、舒明天皇が亡くなりました。
このとき、王位継承資格を持つ皇子は複数存在しましたが、いずれか一人を特定すれば混乱・紛争が避けがたいと判断されたため、舒明の太后だった皇極女帝の即位となりました。
王位継承資格を持つ皇子の一人は、厩戸皇子の長子の①山背大兄皇子。舒明即位時にも候補として名前があがった有力者で、候補者の中では最年長でした。
二人目は皇極女帝の同母弟、②軽皇子。父茅渟王が営んだ河内・和泉地方の勢力を継承しており、阿倍、蘇我倉、大伴など広範な支持勢力を持っていました。
三人目は舒明の皇子、③古人大兄皇子。蘇我馬子の女子を母とする血統的条件から、蘇我本宗家が王権継承候補として強力に支持する存在でした。
四人目は古人大兄皇子の異母弟、④中大兄皇子でしたが、まだ10代半ばすぎという年齢でしたので、王位継承の上では予備軍の位置にありました。
皇極2年(643年)、最年長の①山背大兄皇子が斑鳩宮を急襲され、一族ともども自殺して果てました。襲ったのは②軽皇子を次期大王に推す一派と③古人大兄皇子を次期大王にと画策する一派でした。③の一派の中心人物が蘇我本宗家の新しい家長の蘇我入鹿でした。彼らは共通の敵として、①山背大兄皇子とその一族の打倒・粛清に踏み切りました。
次の先制打を放ったのが、②軽皇子を擁立する中臣鎌足を中心とする一派でした。彼らは、645年の乙巳の変という暴力的なクーデターによって、所期の目的を達しようとしました。
乙巳の変で中大兄皇子は蘇我入鹿を殺しましたが、③古人大兄皇子は逃がしてしまいました。クーデター派は皇極女帝と②軽皇子を擁して飛鳥寺を拠点として、多くの王族や首長を集めました。飛鳥寺は蘇我本宗家がある甘樫丘と③古人大兄皇子が逃げ帰った大市宮の中間にあり、勢力分断を図るには絶好の立地条件でした。
③古人大兄皇子は翌日飛鳥寺へきて、髪を切り出家することを表明し、王位継承の権利を放棄しました。それを聞いた蘇我蝦夷は自殺し、蘇我本宗家は滅びました。
この後、②軽皇子が即位して、孝徳天皇になりました。
乙巳の変の年は唐が高句麗に攻め込んだ年でした。そのまえ、642年には高句麗でクーデターにより王の交代が起こっています。644年には百済でもクーデターが起こり、太子扶余豊が廃され、代わって異母弟の隆が太子になっています。廃太子豊とその一派は大挙して日本に亡命してきました。647年には新羅でも乱がおこり、金春秋が平定しています。
東アジアは激動の時代で、663年に百済救援のため出兵した倭国軍は白村江の戦で大敗し、朝鮮半島の利権を放棄しました。この時も、百済の王族・貴族や多くの民衆が倭国に亡命してきました。
白村江の戦で唐に負けた倭国は唐のような中央集権国家の建設が急務と考えました。672年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が天武天皇になり、国号を倭から日本に変え、王の称号を大王から天皇に変えたことはご承知の通りです。
乙巳の変はクーデターで、中央集権国家の建設とは直接は関係ありませんが、中臣鎌足が蘇我本宗家に変わって政権の中枢に入った契機となったことは間違いありません。

清水大悟さん

2018/7/1310:25:33

まず、
蘇我氏=天皇家は間違いです。
蘇我氏は太古の昔に日本から世界に散らばった一族の末裔で、日本に還って来たと長らく思われていましたが、どうやら異国の地で全く違う人種が入れ替わり、他の士族の末裔に紛れ込んで、日本に侵入して来た帰化人です。
日本は縄文時代より、
家族による村社会のまま、
日本全国を統治して来ました。
その名残りが、
氏神を祀る日本全国各地の神社です。
しかし飛鳥時代に入り、
渡来人を多く受け入れたため、
日本の村社会は維持出来なくなり、
中国式の王朝体制への移行を余儀なくされました。
蘇我氏の台頭は、
日本の村社会の限界を意味し、
蘇我氏の打倒と「壬申の乱」により、日本はそれまでの村社会を改め、中国式の王朝へ完全に移行したのです。

z_x********さん

2018/7/1309:48:58

蘇我氏=天皇家という視点が抜けてますね。

天皇ひとりじゃ何もできません。
古代から筆頭勢力が天皇の権力を専横するものです。

後の時代でいえば藤原氏、平氏、源氏、足利氏、豊臣、徳川、薩長です。
その前が蘇我氏です。さらにその前が物部。

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ski********さん

2018/7/1309:04:22

直接の原因は蘇我と外孫の皇族たちとの対立、氏族内の抗争です。

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