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豊臣秀吉在世中に、細川忠興に加増の沙汰がまったくなかったのはなぜでしょうか。 ...

usai21さん

2018/8/717:45:37

豊臣秀吉在世中に、細川忠興に加増の沙汰がまったくなかったのはなぜでしょうか。
やはり会津転封を断ったことが原因だというのはある程度真実味があるのでしょうか。

あるいはガラシャと離縁しないことなどが起因しているのでしょうか。

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nuo********さん

2018/8/718:12:54

会津転封を断ったことが原因です。
秀吉は転封拒否には非常に厳しく、信雄などはそれが原因で所領没収されています。
まあそもそも加増を受けるような目立った功績をあげてたのかも疑問ですが、、、

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2018/8/1017:03:02

細川藤孝は、元々、足利義輝の家臣で義昭が京を追放される寸前まで、義昭に仕えていました。織田政権に参加したのは遅く、序列は低い(明智光秀の与力)。

しかし、朝廷の位官は高く従五位下兵部大輔(関東管領を継いだ上杉輝虎が従五位下弾正少弼)という身分から、山城国長岡一帯を知行された(後、丹後の南半国を領有)。元幕府高官であることから、朝廷工作を得意としていたのだろう(古今和歌集の伝承者として有名で、関ヶ原の戦いの前哨戦で天皇の勅により、停戦助命されている)。

本能寺の変の際、光秀から筒井順慶と共に光秀の陣営に合流することを求められたが拒否。中川清秀や高山右近、池田恒興らが秀吉陣営に加わり、光秀追討に助力、その後も秀吉方として活躍したのに比べると藤孝(信長死後、当主は忠興)は目立った働きをしていない。
こうしたことから、秀吉政権下でも引き続き細川家は序列が低かったのだろう。

朝鮮の役の関係から忠興は武断派の一人とされているが、武断派は論功行賞で参戦し損の貧乏クジを引かされた口。秀吉の評価も高く無い。

秀吉という人は意外にケチである。三中老の中村一氏だったか、堀尾吉晴だったかが、直に加増を談判したが(山内一豊に奉公に於いて劣らない、同様に上げてくれとアピール)、「アッカンベェー」で一蹴したそうな。

peace2qazさん

2018/8/808:38:56

細川幽斎は京都近辺にいたいだろうし、そういう理由で加増を断ってくれれば秀吉も他の人に恩賞を回せるのでお互い好都合なのではないでしょうか。

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