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日蓮は「余経も法華経もせんなし」といってますが、だとすると、日蓮は少なくとも...

kei********さん

2018/9/1319:20:13

日蓮は「余経も法華経もせんなし」といってますが、だとすると、日蓮は少なくとも仏教徒ではないですよね?
法華経を否定しておきながら南無妙法蓮華経を勧めるとはどういう意味なのでしょうか?

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ino********さん

2018/9/1412:44:02

良く聞く日蓮の文章ですね、
ちょっと見では、本当に、「なんじゃ、こりゃ!」ですよね。


日蓮遺文「上野殿御返事」に
「「末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし」・・・
が書いてありますね。

つまり、「末法に入れば「栓ない」余経、そして「栓ない」
法華経がある、」との意なのですよ。

御存知ないと思いますが、日蓮遺文によると、「法華経」と
言いましても、

いわゆる、迹化の菩薩に授けた法華経(迹門)と、
本化の菩薩に授けた法華経(本門)があることがわかります。

特に、某系の教団では、
大集経の「白法隠没」等を根拠に「末法において、
釈尊の教えでは成仏出来なくなる」などと解説される
ご僧俗もいるようなのですが、
日蓮の教えとは異なります。(今はこれは置きます)

本題に戻ります。
遺文「高橋入道殿御返事」には、
「末法に入なば迦葉、阿難等、文殊、弥勒菩薩等、薬王、
観音等のゆづられしところの小乗経、大乗経、並に法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。

所謂病は重し薬はあさし。其時上行菩薩出現して、
妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし。」とあります、

つまり、「衆生の病の薬とはなるべからず。」の法華経は

迹化の薬王菩薩等にゆずられた法華経の法門であることが
分かります。
(天台大師は薬王菩薩の垂迹と伝えられ、伝教大師は天台大師の後身と考えられていますね。)

で「其の時上行菩薩出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし。」・・・です。

この上行菩薩てのが、久遠釈迦仏が大昔に、最初に化導した菩薩達で、その筆頭の一人を言いますし、
日蓮はこの大菩薩の再誕との自覚がありますでしょ?

日蓮聖人が弘通する末法相応の大白法とは、
「法華経の肝心たる南無妙法蓮華経」と言明しています。

「仏の滅後に迦葉、阿難、馬鳴、龍樹、無著、天親、乃至
天台、伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法、
経文の面に現前なり。」(撰時抄)

「迦葉、阿難等、龍樹、天親等、天台、伝教等の諸大聖人
知りて、而も未だ弘宣せざる所の肝要の秘法は
法華経の文赫赫たり。論釈等に載せざること明明たり。」
(曽谷入道等許御書)

等と、彼らに託した法華経と、末法に広める法華経は
その内容が違うので、「迹門の法華経」と「本門の法華経」との区別がとても大事だと日蓮は、
このことを強調するのですね。

日蓮聖人の弘通された法華経の肝心たる南無妙法蓮華経・
三大秘法は法華経二十八品の経典に説き留められていた
法門であることを教示されているのです。

くどいようですが、

妙法五字は末法のために留められた法華経の肝心であり、

本題の『上野殿御返事』の「法華経もせんなし」とは、
法華経そのものが役に立たないと云う意味ではありません。

たとえば「上野殿母御前御返事」には、
「御菩提の御ために法華経一部、自我偈数度、題目百千返
唱へ奉り候畢ぬ。」
とあります。

とうぜん、題目は根本中心ですが、法華経一部をも読まれたことが分かります。
役立たずで隠没してしまう経であったら、菩提のために
読まないでしょう。(笑)

とすれば、正法時代・像法時代に天台大師等が
ひろめた法門は爾前・迹門の法門として、末法不相応の法華経法門と評する事は別に異論はないのですが、

釈迦仏教の骨髄の妙法五字(日蓮聖人の法門)を
「釈迦の説いた法華経は末法に役立たない」などと「大きく誤解してしまい
これを信者に主張する事は大変、恐ろしい間違いです。

中には、妙法五字・三大秘法の法門は法華経と無関係の如く誤解し、妙法五字を説き広めなかった釈迦も
釈迦仏が説いた法華経も
末法に無益・無役のものと貶す事は、日蓮聖人の教示に背く
解釈であり、心が痛みます。

ま、これくらいで止めます。

  • 質問者

    kei********さん

    2018/9/1413:34:43

    日蓮が1番主張したいことは南無妙法蓮華経ですよね?
    つまり、法華経に南無するということですよね?
    では、法華経に南無するにはどうすればいいと日蓮は言ってますか?
    口で1回唱えればいいのでしょうか?
    また、法華経に南無するとどういう境地になれるのでしょうか?

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tou********さん

2018/9/1919:36:42

西田幾多郎の哲学思想に興味をいだく人ともあろう方が、そのような疑念をもつとは不可解ですね。
あなたの質問内容を吟味するには、弁証法的論理の理解が必要と思われます。

「二者共に何処までも独自性を有し、相互に相対立し、(P64) 相互に相否定することが相互に相結合し、一つの形を作ることであり、逆に相互に相関係する、相結合し、一つの形を形作ると云うことその事が、何処までも相互に対立し、相否定すると云うことでなければならない」(文・Ⅲ・302)。
この時期の西田の思惟の登場する用語のヘーゲル的色彩のゆえに誤解を招来しやすい箇所ではあるが、ここでは「相互的」という言い方のなかに互いに否定しあうものが互いに結合するということが語られている。、」
(新田義弘『現代の問いとしての西田哲学』 P63・P64)

「それで多と一との絶対矛盾的自己同一として、自己矛盾によって自己自身から動き行く世界は、いつも現在に於て自己矛盾的である。
現在が矛盾の場所である。
抽象論理の立場からは、矛盾するものが結合するとは言われないであろう、結合することができないから矛盾すると言うのである。
(中略)
対立が即綜合である。 そこに弁証法的論理があるのである。」
(『西田哲学選集 第三卷』 P176)

以上において、矛盾の論理、つまり弁証法的論理が語られていますね。
「対立が即綜合である」において端的に示されております。

南無妙法蓮華経(これは一念三千と同義です)は、法華経の寿量品の文の底に存在するのですね。
だから、法華経の肝要である寿量品とは矛盾の関係にあるのですよ。
同時には、両立し得ない間柄です。
しかし、まさにそのことによって両者は深く関係することになっているわけです。
寿量品を中軸とする法華経と、南無妙法蓮華経(妙法蓮華経の五字といっても同じです)とは相互否定の関係にあるわけです。
相互否定の関係にあることによって、一方が他方を成立させる必須要件となっているわけです。
上の引用文を借りて表現するならば、「対立が即綜合」なのでうよ。

南無妙法蓮華経が法華経の文の底に存在することによって、法華経による南無妙法蓮華経の否定と肯定を意味しているわけです。
また、南無妙法蓮華経が法華経の肝心・肝要であることによって、法華経の肯定と否定を意味しているわけですよ。

話が少し抽象的になりましたが、要するに矛盾の論理を忘れるところに、あなたのような疑念が生ずる理由があるのですよ。

youichi5959さん

2018/9/1913:02:03

回答者の皆さんは、釈尊の一切経に、根拠が無ければ何の力にもなら
ないし、説得力が有りません。

「念仏無間」、「南無妙法蓮華経」も日蓮の造語です。


日蓮が「念仏無間」とか「南無妙法蓮華経」とか、いくら叫んでも
一切経に全く根拠が無ければ、もはや狂人の寝言です。仏教ではあり
ません。珍しいことを言えば良いというものではありません。
一切経に根拠を出してこそ、大衆を納得させられるのです。
※一切経に根拠があれば、ご提示願います。

「法華経詮無し」だから「南無妙法蓮華経」だ!という屁理屈は
通用しません。

だからと言って釈尊を脱益の仏にして日蓮を本仏に仕立て上げるなどは
仏教徒のやるべきことではありません。外道の輩です。

高橋入道殿御返事「末法に入りなば迦葉阿難等、文殊弥勒菩薩等、薬王観音等のゆづられしところの小乗経大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず」

こうも書かれています。
つまり、薬王菩薩等が教えた法華経の法門は、衆生済度の良薬にはなり得ない、と言う意味です。

確かに「余経も法華経もせんなし」とそのまま読んだら意味が通じませんね。
日蓮上人の遺文はそのへん、説明が分かりづらい為誤解を招き、分派を生み出してしまいました。
残念ですね;_;


大石寺門徒は、法華経と南無妙法蓮華経とを全く別物と捉え、法華経を「詮無し」と、南無妙法蓮華経が末法の真の教えと、そういう解釈をしているようですね。
日蓮上人が南無妙法蓮華経と唱えることを勧めたのは、見宝塔品にあるように法華経そのものが宝塔であるからです。
だからその「主題」を唱えるなら、一部(法華経一部全て)をそのまま書写したことと同じである、だから利益すると考えたのです。

ya2********さん

2018/9/1415:46:04

もう少し前も読むと
「南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心、人の中の神のごとし。此れにものをならぶれば、きさきのならべて二王をおとことし、乃至きさきの大臣已下になひなひとつぐがごとし。わざわひのみなもとなり。正法・像法には此の法門をひろめず、余経を失はじがためなり。今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」となります。

法華経の肝心が「南無妙法蓮華経」

正法・像法時代に「南無妙法蓮華経」を弘めると余経・法華経の功力がなくなり、混乱するの弘めない。(信じられず南無妙法蓮華経を誹謗する者が現れ、地獄へおとすため)

末法、白法隠没の時代になれば、余経・法華経に成仏させる力がなくなるため、南無妙法蓮華経を弘める。

つまり、法華経を否定しているのではなく、末法には三大秘法の南無妙法蓮華経を信じなさい、とされています。

モンキーさん

2018/9/1413:22:55

末法の今じゃあ法華経では成仏できないから南無妙法蓮華経なだけだよ。何も難しく考える必要がないw

かんたんシンプル。

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