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卑弥呼の時代って天皇は、何をしていたの?

fuj********さん

2018/10/223:33:03

卑弥呼の時代って天皇は、何をしていたの?

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acc********さん

2018/10/223:51:06

卑弥呼そのものの正体もわかっていないぐらいです。

その時代の天皇や大王の記録が残っているわけではありませんので、回答は不可能です。

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cor********さん

2018/10/1000:00:07

3世紀における倭を構成する100余国のうちの一国の王だったでしょう。
魏志倭人伝によると、卑弥呼はそれらの国王たちに「共立」されて倭王になりました。後に大王から天皇になる一族は、卑弥呼を共立した国王の一人だったと考えられます。
5世紀になると、倭の五王が宋の皇帝に対して上表文を送り、爵官を求めました。
宋書倭国伝によると、讚、珍、斉、興、武の5人の倭王はそれぞれ皇帝から倭国王の称号をもらうだけでなく、部下たちにも将軍などの称号をもらってやっています。
日本に天皇が生まれたのは7世紀の終わり近くで、672年の壬申の乱によって実力で皇位を奪取した天武天皇が、国号を倭から日本に改め、国王の称号を大王(おおきみ)から天皇(すめらみこと)に変え、天皇を中心とした中央集権国家の日本を誕生させたのです。
また、天武天皇は日本書紀の編纂を命じ、日本は大昔から天皇が支配していたという歴史を書かせることによって、天皇が日本を統治する正統性を主張しました。

2018/10/923:18:04

私見ですが、卑弥呼=天照大御神=神功皇后と考えてます。
そして、邪馬台国=高天ヶ原=前大和王権
場所は、大分県宇佐美神社か、佐賀県吉野ヶ里。
天皇の称号を使い始めたのは、7世紀後半で卑弥呼は、2世紀前半の人。
卑弥呼は天皇とも、皇后とも呼ばれてなかったでしょうが、先祖であったろうと思ってます。

him********さん

2018/10/920:30:57

大和のあたりで豪族やってたとおもわれ。その後の内乱を制して日本という形をつくったのが大和政権であり、大和を支配していた一族がのちの天皇家と推測されています。
あくまで推測ですが、卑弥呼が権力を握っていたのは大陸との交易、つまり、半島からの鉄の輸入を独占していた時代。その後、玉鋼(砂鉄からの製鉄)の技術を開発し、鉄の国産化に成功して力をつけたのが大和政権と言われています。ちなみに、玉鋼は鉄鉱石が産出しない日本独自の製法で、鉄鉱石がとれる大陸から、ましてや、半島から鉄の製法が伝わったというのは大嘘です。しかも、朝鮮半島で最も鉄の生産が盛んだったのは日本が直接統治していた伽耶国であり製鉄技術をもっていたのは朝鮮人ではなく倭人であったと考えるのが普通でしょう。当時の伽耶国の古墳からは倭人の骨が出土しています。

kuw********さん

2018/10/920:10:46

卑弥呼は天皇の祖先の一人です。

「前方後円墳」は天皇の陵墓ですが、その最古最大の古墳が奈良県桜井市の「箸墓」であることは特殊器台と都月型埴輪の型式変遷,壺形土器の編年,墳丘形態の変遷などの研究から判明していた。


その「箸墓」の築造年代について科学的な年代測定法である「炭素14年代法」で測定した結果、240~260年と卑弥呼の亡くなった時期と一致することが判明した。

▼国立歴史民俗博物館研究報告 第163 集 2011 年3 月

「古墳出現期の炭素14年代測定」

春成秀爾・小林謙一・坂本稔・今村峯雄・尾嵜大真・藤尾慎一郎・西本豊弘

172~173頁

「古墳開始期にかかわる桜井市纏向遺跡群出土試料などの炭素14 年代測定を系統的に実施した。
測定結果は日本産樹木年輪の炭素14 年代測定に基づいて較正し,土器型式および出土状況からみた遺構との関係による先後関係から,箸墓古墳の周壕の「築造直後」の年代を,西暦240~260 年と判断した。

この年代は厳密にいうと,周壕が完成した時を示している。しかし,周壕完成後に古墳の築造を始めたわけではないだろうから,この年代幅のなかに,箸墓古墳の築造年代の下限を含んでいると考えてよいだろう。」

「箸墓」の登場が「古墳時代」の幕開けであり、大和朝廷が成立した時期でもある。

▼『前方後円墳国家』、(広瀬和雄 角川選書2003年)、p.7

「古墳時代には日本列島において、北海道及び東北北部、沖縄を除いてその主要部にほぼ統一的に政治的影響力を有する政治体制が成立する。それは政治勢力の拠点であった地名に因み大和王権と称されることが多い。」

▼『前方後円墳国家』、(広瀬和雄 角川選書2003年)、p.152~153

「最初に箸墓が造営され、そこを起点にして各地に前方後円(方)墳築造が徐々に拡大していったのではないし、それが「伝播」していったものではないということである。」

「日本列島各地で前方後円(方)墳のネットワークが一気に形成された、ということが重要である。その範囲は旧国でいうと、西と南は確実なところでは筑前や豊前で、東と北は下野あるいは陸奥といった方面まで広がっている。」

「箸墓をピークにした墳丘規模での階層性が顕著にみられることである。」



つまり「箸墓」は最初の天皇陵であり、卑弥呼は天皇であったことは科学的に証明されている。

魏志倭人伝には「卑弥呼」は「戦乱をおさめるために「共立」された女王」で「鬼道を能くして衆を惑わす」とある。

古代の政治は祭政一致で宗教=政治であったので「鬼道」=「神道」をよく操ることができる有能な指導者で「衆を惑わす」つまり「人心を掌握」できたのです。

ちなみに「共立」を諸国の王が擁立したと解釈するのが一般的ですが、根拠薄弱です。京都大学名誉教授の上田正昭は「三国志」の「共立」の用例を調べて、その意味を王位を相続する「嫡子」するではなく「庶子」が王になることを指し、王家内部の「大臣」や「一族」が擁立したと考証している。

東夷高句麗伝には、長男を抜奇が愚かだったので国人(一族)が弟の伊夷模を「共立」したとあり、東夷夫余伝には、嫡子がいなかったので諸官(大臣たち)は麻余を「共立」しって、どの用例にも諸国が「共立」したという用例はない。

しかも、倭人伝には卑弥呼だけが「共立」が使用されているだけで。男王も台与も「立」であるから諸国王が王を決めるシステムではないとしている。


このことから上田氏は倭国は専制国家体制で、連合体制は間違いとしたうえで。卑弥呼は「庶子」であって「王位」の相続争いが「倭国の乱」であるとしている。



王位を争う「お家騒動」で国が乱れるのは「応仁の乱」や「南北朝時代」に代表されるように頻繁にあったことで、乱があるから倭国の政治体制が不安定で連合体制であるという発想は成立しない。


したがって、何等かの理由で王位を継ぐべき「嫡子」が存在せず、複数の「庶子」で王位をめぐる争いで国が混乱した。これが「倭国の乱」、事態を収拾するために担ぎ出されたのは政治能力の高い「卑弥呼」、近臣などの「邪馬台国」の有力者が協議して「女王」として擁立した。これが「共立」。

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jun********さん

2018/10/705:49:54

中国の正史[三国志=魏志倭人伝]や[後漢書]によると、[146~189年頃、倭国は大いに乱れ、お互いに何年も争っていて、卑弥呼と言う鬼道を用いる女子を共に王に立てた]とあります。

[倭国大乱]と言う、弥生時代の2世紀に起こったと晴れる大乱です。

[倭国=ヤマト王朝]なら、内乱の真っ最中で、天皇の先祖も[倭国の有力氏族]として戦っていたのでは?

複数の中国の正史に書かれているので、この時代に[倭国]の内戦があった事は事実でしょう。

[卑弥呼が王位について内戦が終わった]と言う事ですが、天皇家と卑弥呼の関係は分かっていません。

ちなみに、その当時の天皇は[特別な存在]ではなく、[氏族のリーダー]程度だったと思われます。

[ヤマト王朝]が、有力氏族の連合体と言われているからです。

天皇家が特別な存在になったのは、古墳時代を経て、飛鳥時代に[遣隋使]を送った頃だと思われます。

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