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江戸時代、諸藩の年貢米は全て蔵物として大坂で貨幣化されていたのですか。 自分...

yum********さん

2018/10/2800:34:09

江戸時代、諸藩の年貢米は全て蔵物として大坂で貨幣化されていたのですか。
自分の城下町で貨幣に変えることはできなかったのでしょうか。例などあれば教えてください。

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won********さん

2018/10/2802:59:49

すべて大坂というわけではありません。中心となったのは江戸と大坂ですが、日本の大都市にはだいたい米問屋があり、そこで換金されました。

毎年、収穫期になると収穫された米は換金のために米問屋に集められました。米で禄をもらうのは身分の高い旗本なので、基本的に江戸在住です。旗本大名の領地で収穫された米は、船で利根川を下って江戸の蔵前に運ばれました。「蔵前」という地名はあの場所に地方から運ばれて来る米を納める米蔵があり、その前に船着き場があったからです。

蔵前に集められた米は幕府の認可を受けた米問屋に渡され、換金されました。この幕府公認米問屋のことを「札差」といいます。

質問した人からのコメント

2018/11/1 09:13:07

具体的にお教えくださり、年貢米の流れがイメージできました!!ありがとうございました^_^

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1〜1件/1件中

pla********さん

2018/10/2812:17:56

諸藩の年貢米や各種物産は、すべて大坂に集積され、貨幣化されていたわけではありません。
たいていの藩では国許にも年貢米や各種物産を取り扱う商人がいて、売り捌きや換金に応じていました。このような商人は御用商と言われ、苗字帯刀を許されていた者が多かったそうです。ちなみに福岡市博多区には対馬小路(つましょうじ)と言う地名が残っていますが、そこは江戸時代、対馬藩の蔵屋敷があって、対馬藩の年貢米や各種物産を取り扱う博多商人が出入りして売り捌きや換金に応じていました。

幕府領は元禄三年(1690)頃は、約700万石に近く、日本全国で2600万石とされていた時ですから、約4分の1が幕府領です。このうち旗本などに与えた知行地の約260万石分を差し引くと、幕府直轄としては420万石ですが、これを仮に4公6民の年貢率とすると、160万石見当が幕府の収入でした。この160万石見当の年貢米は各地から集積されて幕府の蔵に納められ、そこから俵取りや扶持米取りの幕臣に俸給として引き渡されるので、その幕臣は蔵米取りと言われたのですが、だいたい西日本の幕府領の年貢米は大坂、東日本は江戸に集荷されていました。江戸時代初期ごろは、東日本の年貢米は八重洲河岸から陸揚げして和田倉に収納していました。その後、和田倉の倉庫では収納しきれなくなったので、現在の蔵前一丁目から厩橋通りのあたりに大規模な米蔵を54棟も建築して移転し、その後、米蔵は67棟まで増設されました。そこは船で運ばれてくる年貢米が直ち蔵に入れられるように堀割がいくつもあり、満潮時の水面より約180㎝も高い埋立地になっていました。蔵前の町名は、この一画の前に位置して町ができていたからです。

幕臣の給与支給の季節になると幕府勘定所から米相場の御張紙が公示され、給与支給日も指定され、俵取りや扶持米取りは使用人を連れて蔵米所(幕府の米蔵)の札差場に行き、積まれた給与支給米に自分の姓名を記した紙を竹に挟んだものを差し込んでいました。そして支給日に借りた荷車や馬などで受け取りに行くのですが、その混雑はひと通りではなく、しばしば争いまで起きたりするので、受け取る者は蔵米所の近くに住んでいた商人などに給与米の受け取り代行を依頼し始めました。この依頼を受けた者が、後に札差業で、俗に札差と言っていました。札差は代行で給与米を受け取ると共に、食扶持以外の余分な米も、御張紙相場での売却を請け負っていました。受け取り代行手数料は100俵に付き金1分(1両の4分の1)、売却代行手数料は100俵に付き金2分でした。

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