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征韓論について教科書には、

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ID非公開さん

2018/11/1921:10:01

征韓論について教科書には、

留守政府は、西郷隆盛を朝鮮に派遣して「開国をせまり」、挑戦政府が拒否した場合には「武力行使をも辞さないという強硬策」をいったんは決定した。

とあるのですが、大河ドラマ西郷どんでは、
西郷隆盛はピストルを持っていくことさえ拒否するほど戦争となることを望まない態度を示していました。
そしてあくまでも目的は朝鮮残留民の保護であると。

どちらが事実ですか??

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ベストアンサーに選ばれた回答

sar********さん

2018/11/2323:49:03

教科書記載が史実です。

有事の場合に備えて、板垣退助には自分が死んだら後(の戦争)は任せると言い含めてありましたし、また伊地知正治に朝鮮の地図を探させたり、朝鮮征伐となった場合の軍事計画をたてさせていた事からも、朝鮮政府の態度如何によっては武力行使をするつもりだったことは疑いようもありません。

ピストルはドラマでは拒否したことになっていましたが、実際は別府晋介に調達させています。これは恐らく朝鮮使節となった際に携行するつもりだったのでしょうが、交渉が容れられることなく、西郷らに害をなされない場合には自決するつもりだったのかもしれません。

(以下、蛇足ながら長文を)

西郷の使節派遣の意図は「武力征韓にあった」とか「朝鮮で死ぬ事にあった」というのが明治6年の西郷の心事とされていますが、私はこうした見方には疑問があります。
武力征韓にあったとする最大の根拠は板垣宛書簡ですが、確かに率直に読み取るならば西郷の意図は武力征韓にあったとしか思えません。

しかし、板垣宛書簡の最大の目的は西郷が使節に就任し派遣される事について、板垣から尽力を得ることにあったのであり、単なる私信としてその内容をそのまま受け取ることは出来ないのではないか、と私は考えます。
当の板垣は最後まで西郷の意図が武力征韓にあったとは考えていませんでしたし、板垣は自分達の主張はあくまで朝鮮との隣交を修め、同心協力しなければならないという趣旨から、使節を派遣し条約締結をすることが目的だったのであり、初めから武力で侵略とする訳ではなかったといい、自分達の主張が「征韓論」と呼称される事を遺憾に思っていました。

そして西郷は様々な要因から朝鮮で死処を得ようとしたという説ですが、これも早計な論だと考えます。確かに、当時の参議の中でも西郷は死に急ごうとしているのではないかと解釈した人は当時でもいました。他ならぬ板垣がそうです。
その板垣に対して、西郷は8月23日付書簡で「死を見る事は帰する如く、決ておしみ不申候得共、過激に出て、死を急ぎ候儀は不致候」(※『大西郷全集 2』より)と書いています。


余談ですが、同書簡では「乍然無理に死を促候との説」は必ず起り、戦を逃れようとする者が出て来るだろうが、先生(板垣)は「御動き被下間敷」と言っています。これは西郷の真意が初めから征韓にあったからこのような事を言っているのではなく、自分が殺された以上は戦争に持ち込んでくれと頼んでいると見るべきでしょう。西郷は自分が殺された以上は出兵すべきであると主張していた事は複数もの証言があります。


西郷の死生観は、木場伝内に宛てた文久2年8月20日付の書簡でも見る事が出来ます。そこには、「憤激して変死共いたし候ては、残根の次第にて決してもふは行迫らず、命を奉じて、死を賜とも如何共従容として畏る考に御座候。」という一文があります。

黒田清綱は西郷は「人事を尽して天命を待つと云ふ崇高なる信仰を有つて居つた」と語っていますが、まさにその通りであったと言えるでしょう。
「生死何疑天附与」とは西郷の「獄中有感」と題された漢詩の一文ですが、生死は天の定めでありどうしてこれを疑おうかと言っているのです。

これらを総合すると、西郷にとって死とは天が与えるものであり、人事を尽くした上で天が死を与えるならばそれを受け入れ命を惜しむ事はしないのであるという事が分かります。
そしてどちらの書簡も、自ら進んで死を求めるような事はしないと言っているのです。

さて、最後に第一次長州征伐の時に西郷は長州藩を説得させるために長州に入ろうとしていた時の事を、「是非長に入て殺されたいと願い居り候」(※『西郷隆盛全集 1』)と記しています。
これは明治6年の西郷の板垣に宛てた書簡と似通ったものですが、果たして西郷は心から殺されたいと思っていたのでしょうか?死ぬ事自体が目的だったのでしょうか?

西郷が死に言及する場合、それはあくまで覚悟の話であって、それ自体が目的や希求するものではないと考えるのが妥当だと思います。

実際、西郷は先述の黒田に「朝鮮の事は心配は入らぬ、帰りには其足で露西亜に廻つて同盟を結んで来る」と語っており、それを踏まえて黒田は「翁自ら使節の任に当らんと主張されたのは、決して死ぬる為めでなかつた。立派に仕遂げて帰る成算があつたと云ふ一転語を下さねば、翁の真意を解し得たりとは思はれぬ。」と証言していますが、西郷に親近して西郷をよく知っている人であるからこそ、信憑性が高いように思います。

以上を踏まえて、私は西郷の真意は死ぬための渡韓でも征韓を期しての交渉でもなく、あくまで交渉を成し遂げて朝鮮との国交を結ぶ事にあったのであり、交渉が上手く行かず、万が一大使に害を加えられたような場合には断然出兵すべきであるというものだったと理解するのが正確なように思います。

  • sar********さん

    2018/11/2512:57:23

    ちなみに私は西郷が征韓論者ではない、と言っている訳ではありませんよ。使節を派遣して大使が殺害されるような暴挙が起った場合には、大義名分が立つから朝鮮の罪を内外に鳴らして出兵すべきであるという西郷の論も、「征韓論」です。それを否定しているわけではありません。

    しかしながら西郷の真意が征韓、あるいは死ぬことであり、そのために使節になろうとしたのかという事については疑問があるというだけです。

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質問した人からのコメント

2018/11/26 16:59:38

皆様貴重なお話本当にありがとうございました。
どのお話も大変興味深く私にはベストアンサーは決められませんが、一番わかりやすかったsarさんの回答をベストアンサーとさせていただきます。

ベストアンサー以外の回答

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cel********さん

2018/11/2218:44:02

御質問にある教科書の記述が、教科書に書いてあるそのまま、その説明自身は「留守政府の方針」であって『西郷隆盛自身の考え』については述べていない様な気はします。
が、それはさておき、西日本新聞のWebにある2018年1月25日 の記事、

『西郷どん、実は親韓論者だった? 定説『征韓論』に一石 28年前の大河ドラマ放映時にも論争』

を御紹介します。(↓)

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/389043/

「定説『征韓論』に一石」”と言う見出し自体、西郷隆盛はいわゆる“征韓論”者だったとする説が、このテーマを研究している学者の中ではかなりの主流を占めている(とこの記事を書いている記者は考えている)事を示します。

記事中に…

~~

一方、明治維新史学会事務局長で明治大の落合弘樹教授は「鹿児島県外の研究者で遣韓論をとる人は少ない。西郷がどこを目指そうとしていたのかなど考えが分かりにくいために議論がまとまらない」と指摘している。

~~

…とあるのも、読者が『西郷隆盛は征韓論者ではなかった、と言う主張は、学者の中では相当少数派なのだろう』と思うであろう事を想定した、記者の書き方であるのは疑えません。

質問者の方が、西日本新聞の記者が『”西郷隆盛=征韓論者”が、学者の中の大勢的見解』と言っているのを信じるなら、『多くの学者がそう思っているなら一応それを信じておこう』と(言い方は悪いですが)手を抜くのは、それなりに合理的な判断とは思います。そうした「手抜き」でも良ければ、

『西郷隆盛は、内乱の恐れもある国内の不平士族の不満を、朝鮮での戦争に振り向けようとした。その為に自分が使者に立って朝鮮で殺されるのが良い、と考えた』

という定説の通りに理解されれば良いと思います。

尚、その背景については、当時の西郷は病気のせいで「自殺願望」があったのではないか、と考える学者もいます。その説では、『自分が死んで戦争を起こそうとした』事自体は必ずしも否定しないが、西郷個人にとっての重要性は、”征韓”よりも”死に場所を見つける”事にあったのだろう、という事になります。

一方『手抜き』をしないのなら…

『西郷隆盛は征韓論者だった』と考える(大多数の)学者は、それなりの根拠はあって言っているはずですよね。また、西郷隆盛は征韓論者ではなかったと考える学者も(『鹿児島県にしかいない』のかも知れませんが)、とにかくそれなりの根拠はあるのでしょう。

…って事は、知恵袋の様に、匿名で根拠資料も特に挙げずに結論だけを述べる事が出来るサイトで、『どちらが事実ですか?』と聞く意味は無いのかも…
根拠資料の提示がなければ、どれが正しいか、主観的にも判断できませんから…

一応サワリだけ、申し上げておきます。

西郷隆盛が“征韓論”の文字通りの意味の考えを持っていた事を示す史料はあります。例えば、旧薩摩藩士の有馬純雄(別名有馬藤太)がその回顧録「維新史の片鱗」(日本警察新聞社・1921年)の二六九頁で…

『若し西郷先生の主張通りに成って愈々海外に兵を出すと云うことに成れば文官側としては伊地知さんと私とが文官側で随行することと定められて居た。
「お前は占領した地方地方の事を捌いて行く役に為るのぢや」
と先生は云って居られた』(以下略)

って書いています。これがホントなら、西郷は文字通りの”征韓”を考えていた事になります。(該当部分は国立国会図書館デジタルコレクション↓で見られます)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964354/153

この回顧は、明治六年よりは相当後のもので、有馬が次男で“ホラ話”をしているだけの可能性もありますが、他にも、伊地知正治が下野後の西郷宛に朝鮮征服のプランを報告している書簡なども見つかっています。

一方、西郷隆盛は、外交解決を主に考えていたのだ、とする当時の関係者の発言もあります。

「西郷=征韓論者」とする史料もあれば、そうではなかったとする史料も、両方あるのは、研究者の中では常識ですので、『〇〇という史料は、西郷は征韓論者だったと言っているから征韓論者だったのだ』やその逆では、このテーマは結論が出ません。(当然ながら)西郷自身の発言が重要になります。

閣議(正確には参議の会議)では…

居留民保護の為の派兵と使節派遣の並列案に対して、西郷が『まず使節を送り外交交渉での解決を図るべき」と言い、

派兵を主張していた板垣らもそれに賛同し、使節派遣先行はほぼ決まり、

清から帰国した副島種臣が自分が使節になる、と言ったが、結局西郷の希望が通り、留守政府内では西郷の使節派遣が一応決まり、

ところが、訪欧から帰国した岩倉具視らがそれを潰して、西郷・板垣らが憤激して下野、

と言う流れだったのは、西郷隆盛=征韓論者説も、遣韓論者説(=西郷の意図は主に外交解決にあった、とする考え)も一致しています。
つまり、大っぴらには「西郷隆盛は外交解決を主張していた」のは、よく知られています。

…にも関わらず、西郷隆盛を征韓論者とする意見がある、って言うか(西日本新聞が書いているように)”定説”になっているのは、西郷自身が“征韓論”である事を私信に書いていたからです。

その一部を御紹介します。

まず、板垣退助宛明治六年八月十四日付け書簡から引用します。(大意もつけます)

『是非此処を以戦に持込不申候ては、迚も出来候丈けに無御座候付、此温順の論を以はめ込候へば、必可戦機会を引起し可申候付、只此一挙に先立、死なせ候ては不便抔と、若哉姑息の心を御起し被下候ては、何も相叶不申候間、只前後の差別あるのみに御座候間』(以下略)

大意「ここで戦に持ち込まなかったら、とても出来そうにないから、ソフト路線ではめ込めば必ず戦争の機会を引き起こせるだろう。この挙に先立って(自分を)死なせてはかわいそうだと、姑息な事を考えてしまうと、何も出来なくなる、死ぬのは前か後かの違いしかない」

(↓の大西郷全集第二巻七五一頁)
https://archive.org/details/daisaigzensh02saig

板垣宛明治六年八月十七日付け書簡からの引用です。

「戦は二段に相成居申候。只今の行掛りにても、公法上より押詰候へば、可討の道理は可有之事に候へ共、是は全言訳の有之迄にて、天下の人は更に存知無之候へば、今日に至り候ては、全戦の意を不持候て、隣交を薄する儀を責、且是迄の不遜を相正し、往先隣交を厚する厚意を被示候賦を以、使節被差向候へば、必彼が軽蔑の振舞相顕候のみならず、使節を暴殺に及候儀は、決て相違無之事候間、其節は天下の人、皆挙て可討の罪を知り可申候間」(以下略)

大意「戦いは、二段階になる。今の状況でも国際法上は朝鮮を討つ道理はあるが、世間の人はそれを知らないから、隣国としての付き合いを軽視する事を責めて、これから仲良くしようという使節を送れば、きっと朝鮮はそれを軽蔑した振る舞いをするだろうし、使節を殺すのも間違いないだろうから、それで世間の人も、討つべき朝鮮の罪を知るだろう」

「内乱を冀ふ心を外に移して、国を興すの遠略は勿論、旧政府の機会を失し無事を計て、終に天下を失ふ所以の確証を取て論じ候処」

大意:「内乱を望む心を外に向けて、国を興す戦略は勿論、徳川幕府が機会を失して事なかれ主義の対応をした為に、ついに天下を失った理由を証拠として論じてきた」

(大西郷全集第二巻七五四~七五五頁)

元薩摩藩士別府晋介宛明治六年九月十二日付書簡から引用します。

『先日は北村参候て是非列行呉候様承候付いまだ発表に不相成候故、其節に至候はば、都合いたし可申旨返答いたし置申候。土州人も一人は死なせ置候はば跡が可宜と相考居申候。此節は第一憤発の種蒔に御座候故、跡の為に相成候はんと相考居申候。』

大意『先日、(元土佐藩の)北村(重頼)がやってきて、是非使節に加えてくれ、と言うので、その時期が来たら取り計らってやろう、と返事をした。土佐人も一人は死なせておいた方が後々良いだろう。今は憤激する種を蒔く時期なのだから、後の為に役立つだろう。』

(大西郷全集第二巻七七一頁)


『閣議の様な公式の場の発言よりも、私信の方に本音が出る』というのは、歴史の基本常識ではあります。ただ、一般的には常識でも、常に絶対にそうだと迄は言えません。何らかの根拠があれば「私信でも本心では無い」と言えるケースもあります。

ですので、定説を否定して「西郷隆盛は(征韓論者ではなく)遣韓論者だった」と主張する為には、「上記の様な私信はウソ。閣議での公式発言の方が西郷の本心
」と考えるその根拠の提示が必要です。
もし、ご質問者の方が『学者の大勢意見=正しい』という“手抜き”をされないのなら、既にご紹介した様な『西郷隆盛自身の私信は本心では無い』と言える根拠を説明している主張を聞いて、それに基き質問者御自身にとって「説得力があるか否か」を判断される事をお勧めします。

因みに、私自身は「定説」を支持しています。

例えば、別府晋介が征韓論者だったのは殆ど疑いがないですが、西郷が別府に上記九月十二日付の私信を書いた時点では、

西郷が使節に立つ事は確定的

かつ、

西郷自身が八月二十三日付の板垣宛書簡で、(西郷を使者に立てる事が)「無理に死を促すという説は必ず起こり、それを理由に「戦いを避ける策」が廻らされるのは間違いない、と言っているように、西郷が使者に立つ事が戦争のきっかけになる可能性が充分ある事は十分予想されていた、

…という事は、九月十二日時点では、征韓論者の別府晋介にとっては、確定的だった(と思えた)西郷の使節派遣は、まさに自分の考え通りの事で、かつ西郷もそれは良くわかっていたはずで、そういう状況で西郷隆盛が、後に自分の介錯を任せる事になる程近い関係にある別府晋介にウソをつく理由は、私には思い付けません。

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xyz********さん

2018/11/2018:38:45

史実として、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣退助らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と呼ばれるものであり、事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた。
西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁として定着した。

joy********さん

2018/11/1921:45:00

西郷は殺されるつもりで行こうとしていたからね。それを大義名分として派兵するつもりだった。そのために周辺各国にスパイを放ち、板垣退助や伊地知正治に派兵計画を立てさせていた。
交渉が成立した場合も派兵は認めさせるつもりだったろう。

sun********さん

2018/11/1921:32:40

教科書は政府見解
ドラマは西郷の見解です。



ちなみに西郷は
もし自分が死んだなら
初めて征韓すべしという主張です

間違っているとすれば
留守政府も最初は征韓など考えていません
しかし帰ってくる外交官全てが征韓論者になって戻ってくるという有様です
あんま「西郷どん」褒めたくないですが
そこは西郷どんが正しいです
ちなみに実際は「寸鉄帯びずに」で
短刀や小刀も持って行かないと言ったそうです

戦争を望まないというのは間違いで
西郷は自分が死んで戦争の火種を作ろうかとしていました

口では「戦さをしに行くのではない」
と言ってたそうですが。

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