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西軍は豊臣公儀軍ですよね? 関ケ原の戦いのおりに形成されたいわゆる「西軍=...

dan********さん

2018/12/118:17:24

西軍は豊臣公儀軍ですよね?

関ケ原の戦いのおりに形成されたいわゆる「西軍=毛利・石田連立政権」は
豊臣公儀軍という見方は正当でしょうか?

それに疑問とする問いを見て疑問に思い質問いたしました。
(もちろんこの公儀性が当時、多くに受け入れられなかったとは存じております。)

西軍を公儀軍とする根拠は以下です。

⑴島津家・真田家に対し自分たちを公儀と称している。
もしくは豊臣家(公儀)から命令を受けているとしている。

⑵内府違いの条々によって徳川家康を公儀から排除した。

⑶伏見城の戦いの後に豊臣秀頼から恩賞を受けている。

⑷「言経卿記」により戦後に「家康が大坂城に入城して、秀頼と「和睦」した」と
ある。

⑴、⑵だけでは西軍=公儀とするのは難しいですが
伏見城の戦い後に豊臣秀頼から正式に恩賞を受けていることは大きく
その後⑷で山科言経から見て「豊臣VS徳川」に見えていたという
構図は大きいと思います。


関ケ原の戦いというものは石田三成・毛利輝元たちが公儀を名乗り
石田・毛利連立政権を確立させ徳川家康を公儀から排除したが
それを諸大名が認めずに少なくとも決起の首謀者である
石田三成を逆徒として成敗したという政変ではなかったでしょうか?

関ケ原の戦い後の史料には石田三成を逆徒とし死罪になったと
されるものが多いです。

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ベストアンサーに選ばれた回答

img********さん

2018/12/514:03:41

>⑴島津家・真田家に対し自分たちを公儀と称している。
もしくは豊臣家(公儀)から命令を受けているとしている。

⑵内府違いの条々によって徳川家康を公儀から排除した。

西軍を公儀軍とする根拠というよりも、公儀軍と主張する西軍目線の根拠となりますから、西軍を公儀軍との根拠には弱いです

>⑶伏見城の戦いの後に豊臣秀頼から恩賞を受けている。
伏見城の戦い後に豊臣秀頼から正式に恩賞を受けていることは大きく


三成の書状からでしょうか

恩賞を受けたとされる伏見城攻めの九州大名である島津義弘は、国元等への書状には書いていません

三成書状は自軍=西軍の優位性・公儀制を強調する為にかなりモリモリな内容になっておりますので、秀頼から恩賞を受けているというのも真偽はわかりません

他(三成以外)にも書かれたものがあるかはわかりませんが、まだ見たことがないので信憑性は薄いと思います

>⑷「言経卿記」により戦後に「家康が大坂城に入城して、秀頼と「和睦」した」と
ある。
⑷で山科言経から見て「豊臣VS徳川」に見えていたという構図は大きいと思います。


どうでしょう

大坂城に入ったから西軍=豊臣家と見られていた(内実を知らない)ぐらいの噂話のレベルだと思います

北野社家は、豊臣家老女(孝蔵主と同じ権威を持つ)御ちゃあや大蔵卿局と直接大坂等で会っていましたが、西軍を秀頼様軍と認識していません

この北野社家は毛利家とも縁が深く、毎月寄進を受けているほどです

元康が大津城攻めの際には京極と元康への見舞に大津まで行っています

他にも「内府違いの条々」発効後に大坂へ下向した西洞院時慶(孝蔵主と姻戚関係と言われる)も、前田玄以・毛利等と会っていますが、こちらも西軍=秀頼軍との認識はありません

直接西軍関係者と会っていたり、豊臣家関係者と会っている寺社・公家関係者の日記を引用するか、直接会っていない=内実を知らない噂話レベルの日記を引用するかどうかですね


因みに豊臣家は関ヶ原で西軍が敗北した後から家康の大坂入城までの間に、寺社へ祈祷をしていません

祈祷をしていない事実は大きいと思います

上記の事柄から西軍=豊臣公儀軍とはできません



>関ケ原の戦い後の史料には石田三成を逆徒とし死罪になったと
されるものが多いです

「内府違いの条々」を受け取った後からすでに「謀反」と書かれている書状はありますよ

質問した人からのコメント

2018/12/7 01:45:06

回答ありがとうございます。
他の回答して下さった方もありがとうございます。

ただの1件も西軍を公儀とする回答が無かったことは
正直驚いています。

ただ回答を拝見させていただき確かに西軍=公儀とするのは
あくまで西軍の言い分だなと解りました。

ありがとうございます。

ベストアンサー以外の回答

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xyz********さん

2018/12/415:34:30

いいえ、家康の会津討伐軍には後陽成天皇の勅命が下されており、後陽成天皇から布100反が下賜され、官軍の証である錦の御旗が掲げられています。

関ケ原の戦い当時の官職も家康の方が上です。
正二位内大臣 豊臣朝臣家康(内大臣・・・太政・左・右は藤原摂関家の名誉職であり実質的な首相。家光以降の徳川将軍は内大臣)
従二位権中納言 豊臣朝臣秀頼(納言・・・四等官(太政・左・右・内大臣)の次官

oia********さん

2018/12/216:05:39

西軍を豊臣公儀軍とするのは以下の点から不適切だと思います。

まず一つは、関ケ原の戦いが東軍の勝利に終わったにもかかわらず、その時点で豊臣政権は崩壊していないという点です。

もしも西軍が豊臣公儀軍であったならば、西軍の崩壊は豊臣公儀軍の崩壊であり、西軍の敗北は豊臣公儀の敗北だった事になります。
確かにかつては、関ケ原の戦いを豊臣対徳川の戦いと捉え、東軍の勝利によって徳川政権が成立したと考える向きもありました。しかし、最近の研究では関ケ原の戦いの後も豊臣の公儀はなお存続しており、家康はそこから長い年月をかけて豊臣との立場を逆転させていった事が分かっています。
この事は、西軍の敗北は必ずしも豊臣公儀の敗北ではなかった事を如実に証明しています。

二つ目は、肝心の豊臣恩顧の武将たちの多くが西軍を豊臣公儀軍とは思っていなかったという点です。

上記のように関ケ原の勝利にも関わらず、直ぐには豊臣政権が崩壊しなかったのは、東軍に属した武将にも、徳川ではなく豊臣に忠誠を誓っており、徳川が豊臣を倒すのを許さないという立場の者が少なからずいたからです。
家康は自分が豊臣と敵対していると思われれば、それらの武将は敵に回ってしまうと思っていたために、関ケ原の戦いの前も、その後も当面の間、自分は豊臣家の大老だという立場を取っていました。

それらの武将の忠誠は、徳川ではなく豊臣に向けられていたのですから、もしも西軍が豊臣公儀軍であり、徳川が豊臣公儀に歯向かっていると認識したならば、家康が警戒して通り、当然徳川から離反して西軍についたはずです。
ところが、彼らは実際には東軍として西軍と戦っています。この点で、豊臣恩顧の大名の多くにとって、西軍は豊臣公儀軍とは認識されていなかったといえるわけです。

確かに、当時西軍が自分たちは豊臣公儀軍であると名乗り、その為にいろいろと努力していたのは事実です。
実際、建前だけならば、豊臣公儀としてこれ以上ない建前を用意できていたといえます。
しかし、豊臣恩顧の武将に公儀と認めてもらえないようでは意味がありません。
山科言経がどう思おうと、肝心かなめの豊臣恩顧の武将が公儀だと思わないならば、それは内実を伴わない建前だけのものと言わざるを得ません。

結局のところ、豊臣恩顧の大名の動向や戦後の状況から考えて、関ケ原の戦いは豊臣政権という体制内の、主導権争いに他なりません。
であるにも関わらず、建前の部分だけを評価して西軍を豊臣公儀軍としてしまうのは、本質を見誤ってしまった解釈だといえます。

という事で、西軍を豊臣公儀軍としてしまうのは、建前にとらわれ過ぎた見解で、内実は豊臣政権内の主導権争いである為、どちらかが公儀軍だったと客観的立場から述べる事は出来ないといえます。
あえて言うならば、東軍も西軍も政権内の主導権を握ろうと、豊臣家家臣がそれぞれ連合した軍であり、どちらも豊臣公儀を自称していた。ととらえるのが適切な解釈と言えるでしょう。

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