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第一コリント8:4〜6 は、三位一体を否定する根拠になりますか?

ogi********さん

2018/12/2320:27:07

第一コリント8:4〜6 は、三位一体を否定する根拠になりますか?

"そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。
なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、
私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。"
コリント人への手紙 第一 8章4~6節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

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o_r********さん

2018/12/2504:31:39

否定にも肯定にもなりません。
逆に言えば、三位一体の教義を否定したい人はそれなりの解釈で根拠に使うし、肯定したい人もそれなりの解釈で根拠に使うわけです。
それは他の聖書箇所についても言えることです。
三位一体の教義を擁護する側も批判する側も、
共に聖書の言葉を自分たちの都合に合わせて引用しています。
教義と聖書との関係ってそんな感じで何世紀も経てきたのです。
それはわれわれ信徒が好むと好まざるとに関係なく認めなければならない、それが教会の現実の歴史です。

個人的に言えば、ご指摘の箇所は素朴に読めば、誰でも感じるはずです、
「父なる唯一の神」(これは聖書のギリシャ語文法では語順を替えて「唯一の父なる神」とか「唯一の神である父」と訳すことも可能は可能です)と、
「唯一の主なるイエス・キリスト」とが、対照的に述べられているということを、です・・・。
つまり、使徒パウロにとって「唯一の神」と「唯一の主」とは区別されていたのです。「神=主」ではないか!と言う人がいますが、ことはそう単純ではありません。それは聖書神学のテーマとなるので、ここで私が論じ得ることではありませんが、すくなくとも、この箇所をもって三位一体の教義を正当化することは極めて困難であり無理があると思います。
逆に、この箇所をもって三位一体の教義を否定するとすれば、パウロの神学において、「神」と「主」とがどのような意味で区別され、使い分けられているのかを論じ得なければなりません。
ここで私が言い得ることは、当時のヘレニズム世界で「主(キュリオス)」とはどういう意味があったか、であり、少なくとも下記のサイトの説明は単純すぎると思います。
https://opusdei.org/ja-jp/article/44-sheng-paurotohadonoyounaren-de...
なぜなら、「主(キュリオス)」は聖書での意味を超えて(つまり旧約聖書で「神=主」だから新約聖書で「イエス=主」は「イエス=神」を意味するといった内的な理屈を超えて)、ローマ皇帝も「主(キュリオス)」と呼ばれていたわけです。
すなわち、当時の「主(キュリオス)」という称号は「神」を意味したとしてもそれは旧約聖書の「主=ヤハウェ」とは違って、いろんな人に妥当し得る相対的な概念でした。その意味においては、「神」と言うより「神性(者)」とか「神的存在」というほうが適切でしょう。
つまり、イメージとしてですが、ユダヤ教徒だった使徒パウロにしてみれば、「主」は、聖書の絶対的存在としての「神」よりも一段、劣った存在だったということです。
歴史を踏まえれば、元・ユダヤ教の熱心な信徒であり活動家であったパウロにとって「唯一の神」は「イエス・キリストの父」以外にはありえなかったことでしょう。
だからこそ、初期キリスト教の信徒は、同じ「主(キュリオス)」という称号を皇帝ではなくイエスに対して用いることによって、皇帝礼拝の拒否という宗教的反抗の姿勢を示すことになったのです。

そこでより正確なことは下に引用する専門家の先生たちの言葉から、教理的先入観なしに謙虚に学ぶとどうなりますか?
公平に見ても、けっして、三位一体の教義を根拠づける聖句とは思えませんよね。
私自身は、三位一体の教義を尊重する福音派に属する者ですが、その私でさえも、ご指摘の聖書箇所を根拠にして三位一体を主張することは、歴史に反することではないかと存じます。

「ブルトマンは、ヘレニズム的なキリスト教集団の人々によって使われたイエス――イエスはそこでも新しき時代を此の世に持ち来らしたと考えられた――への呼称として「主」、「神の子」等の呼称をあげ、それらが神的領域に属し、礼拝され、又或る意味では神とも考えられたのであるが実は絶対者としての神よりも一段と低い存在を意味したと言う。」(~元・立教大学キリスト教学科教授 野呂芳男氏の論文「実存論的なキリスト論への一試み」)

「ここでヘレニズム世界の宗教について語るさい、『神々』と並んで『《キュリオス》たち』という称号が出てくることが、『唯一の《キュリオス》、イエス・キリスト』という信仰告白との関連で注目されます。ヘレニズム世界の人々は、人間が存在する場である宇宙を《コスモス》と呼び、その《コスモス》は支配する諸々の霊的な力で満ちていると考えていました。そのような支配力は、『支配』または『権力』《アルケー》、『権威』《エクスーシア》、『勢力』《デュナミス》などと呼ばれていました(コリントⅠ二・六、一五・二四、ローマ一三・三、コロサイ二・一〇、エフェソ一・二一など参照)。これらの『支配力』は、人間の宗教的崇拝を要求するとき、オリエント宗教の影響もあって、『主』《キュリオス》と呼ばれたのです。後に帝政時代のローマ皇帝も、《コスモス》の支配力として、《キュリオス》と呼ばれることになります。ヘレニズム世界の人々は、このような《コスモス》の多くの支配霊を《キュリオス》として拝んでいたのです。
このような多くの『神々』と多くの《キュリオス》たちを拝んでいるヘレニズム世界に向かって、キリストの福音は、天と地の創造者である唯一の神と、唯一の《キュリオス》であるイエス・キリストを宣べ伝えるのです。天と地の創造者である唯一の見えざる神を拝むことは、その神が死者の中から復活させたイエス・キリストを、万物の支配者《コスモクラトール》としてその御前に膝をかがめ、主《キュリオス》と言い表すことによってなされます。(中略)
ヘレニズム世界での異邦人への福音宣教では、イエスを《キュリオス》として宣べ伝えていること、また、『イエスは《キュリオス》である』と言い表すことが信仰告白の中心的な位置を占めていたことが分かります(コリントⅠ一二・三)。ユダヤ人に対しては、イエスが聖書に約束されていたメシア(そのギリシア語訳がキリスト)であることを示す『キリスト・イエス』とか『イエス・キリスト』という称号は十分意味を持っていましたが、聖書に馴染みのない異邦人にとっては、『キリスト』はイエスの身分を表す称号としては理解されず、『イエス・キリスト』が一つの人名のように受け取られていました(現代のわたしたちも事情は同じです)。それで、イエスの身分を表す称号として《キュリオス》が用いられるようになり、『主イエス・キリスト』《キュリオス・イエスース・クリストス》が信仰告白の最も凝縮された表現となりました(ローマ一・三~四)。」
http://www.tenryo.net/m3_book.php?p=10&q=001

「初代のローマ皇帝であったオクタヴィアヌスと二代目のティベリウスは、自分たちが『キュリオス』と呼ばれることを常に拒んだようです。しかし、三代目のカリグラからずっと(その間、一人の皇帝を除いては)、みなこの『キュリオス』という称号で呼ばれることを許したようです。パウロの時代はすでにネロ皇帝でしたから、自分が『キュリオス』と呼ばれることを当然のように求めるネロのいるローマでイエスが主であることをあかしすることは、やがてローマのクリスチャンがどのような立場に立たせられるか容易に察せられます。実際、A.D.60年の『ローマの大火』によって、イエスを『主』(キュリオス)と告白するキリスト者に対する迫害が火ぶたを切ります。そのようなローマに、予め神によってパウロが遣わされて、そこでも主イエス・キリストをあかしすることは、深い神の摂理が隠されていたのです。」
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%8...

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did********さん

2018/12/2415:33:33

え?
それってどういう屁理屈?

むしろこれこそ、
三位一体の教理が正しいことを証明する聖句でしょ?

信じたくないならそう言えばいいだけです。

twx********さん

2018/12/2412:30:07

勿論、三位一体を否定している聖句ですね。
唯一の父なる神は、万物の基となる霊をい出す方であり、唯一の主なるイエス▪キリストは、万物をご自身に向けて形造った唯一の神です。
万物の中でも人間は、御子の女、花嫁、妻となる者として創られています。
父も子もそれぞれ唯一の存在で同じ神、同一神ではありません。

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h0q********さん

2018/12/2323:28:38

ローマ帝国においては、その皇帝は自己を神と考えていました。
イエスを「神人融合体」とする考え方は、その母マリアを「神の母」
とする考えと共に、そのような異教文化圏内でキリスト教が
発展する中で生まれたもので、特に、3~4世紀のテルトリアヌスや
オリゲネスやアタナシウスなどの教父たちによって
明確化にされていった思想です。しかも、いったんイエスを神と考える
思想が正統化される(325年ニケーヤ会議)と、イエスに関する
他の考え方は、ローマ皇帝の政治権力によって排斥されました。
例えば、333年に、ローマ皇帝コンスタンチヌスは、ニケーヤ会議に
よって異端となったアリウス派の書は見つかり次第必ず焼却すること、
そして、そうしない者は死刑に処す、という勅令を出しています。
このようにして、イエスは神であるという思想が
キリスト教の正統的信仰として確立されていったのです。
現代のキリスト教の多くが、イエスを神と信じるのは、
そのような伝承を受け継いだ人たち(神学者や教会の牧師たち)に
教えられたことを、そのまま無批判的に受け継いでいるにすぎません。

新約聖書におけるキリスト教とニケーア会議の4世紀初頭のキリスト教との間には、あきらかに一つの発展が見られます。
その中で、キリスト教は、イエスを、単なる「神からのキリスト」としてではなく、神と同等・同格・同一などとしたのです。
イエスを神と同一視する解釈が現れた背景には、キリスト教の中心がヘブライズムからヘレニズムに移り、「ユダヤ教の伝統が薄れてしまった」ことに大きな理由があると思っています。もともと、イエスもその弟子たちもみんなユダヤ人たちでした。しかし、やがて、ユダヤ人のキリスト教徒はキリスト教の歴史から消滅していきます。ニケーア会議の頃には、ユダヤ人によって始められた宗教運動がユダヤ人抜きのキリスト教に生まれ変わったわけです。
イエスを神とする教義が、テルトリアヌスなどの、ローマ・カトリック教会の教義の礎を造った非ユダヤ人教会教父たちによって形づくられていった、その同じ歴史過程で、イエスを神とすることなくメシアとして受けれていたユダヤ人のキリスト教徒が、しだいにキリスト教の世界から姿を消しています。
新約聖書の中でも、その後期に書かれたヨハネの福音書(一世紀の終わり頃)では、イエスの敵対者は、「祭司長」や「ファリサイ派」や「律法学者」としてではなく、「ユダヤ人」として描かれています。二世紀になると、マルキオンの教会のように、ユダヤ教の聖典(旧約聖書)を認めないキリスト教運動が勢力を広げます。
そして、やがて、テルトリアヌスのような反ユダヤ人主義者(Christian Antisemitism, William Nicholls)を含む初期の教会教父たちの手によって、「三位一体」などの、いわゆる「正統」とのちによばれるキリスト教の教義がしだいに確立されてゆきます。
おそらく、最後のユダヤ人のキリスト教徒の記録として残されているのは、いわゆる「エビオナイト」(Ebionites)と呼ばれたユダヤ人キリスト教徒のグループに関するもの(二世紀)だろうと思いますが、このユダヤ人のキリスト教徒の資料(「エビオナイトの福音書」The Gospel of Ebionites、と呼ばれている)によれば、彼らは、イエスの処女懐胎を信ぜず、また、イエスを創造主と同一視することなく、神から使わされた「単なる預言者」と見ていたために、たとえば、テルトリアヌスのような反ユダヤ人主義の教会教父たちから非難されています(Stephen Goranson, "Ebionites"; William L. Petersen, "The Gospel of Ebionites", The Anchor Bible Dictinary)。つまり、二世紀、まだユダヤ人のキリスト教徒が存在していた頃には、「イエスは神ではなく人」であると信じていたキリスト教徒がいたことが知られています。
このように、もともとユダヤ人の間でユダヤ人によって始められた宗教運動(キリスト教)から、やがてユダヤ人自身の場所が完全になくなっていった歴史過程が、もともと「イエスは人」と考えていたキリスト教徒が消滅していった歴史過程でもあったわけです。キリスト教が反ユダヤ主義に傾き、ユダヤ教の伝統から離反していったことこそが、キリスト教がイエスが神と同一視されてしまうことになった大きな要因であったと思われます。

nak********さん

2018/12/2322:41:56

神とその御子イエス・キリストというお二人の立場を説明しているのですが、少しあいまいな書き方ですね。それより、ヨハネの福音書第1章1-13の方が明確です。ここでは、イエスを言として現していて、「‥すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。‥」イエス・キリストは、旧約の創造主としても語られています。神とイエス・キリストは共にあった、というはっきりとお二人が別人であることが分かります。神はイエス・キリストを神としてすべてをお任せになったのです。すなわち、地球を創造することも主にお任せになったのです。神はイエス・キリストを救い主としてこの地上にもお遣わしになったのです。

dri********さん

2018/12/2321:45:24

どっちでもいいと思います。

お聞きなさい。
我々に大事な事は、「三位一体とかなんとかいう事実があるのかないのか。なぜあいつらはそんなことを言いだしたのか。いったいどんな事実があるのか。」なんです。
「どうせ、わかりっこないことを、お前は信じるか、くみするか、Yesといったら銃で撃ち殺すけどどっちがいいか?」ということではないんですよ。

新約のどこを探したって「父と子と聖霊」がどうこうなんて書いてないんです。
しかし、歴史は新約聖書がその地位を確立する以前に、教会が至聖三者を認めることを信仰箇条に入れたというのが事実です。
教会はあの手、この手で「神は三つで一つだ」「父と子と聖霊だ」と人々に布教しました。

常識的な人間ならそこで「なぜだ?こいつら、いったい何がしたかったんだ?」ということになるでしょ。

今はプロテスタントが幅を利かせていて「聖書だけ」と言っているから、誰がどういうことでそんなことを言いだしたのか、という部分はわざわざみんなして切り落として行ってるんですよ。「2世紀に聖人がこういっただと?聖書に書いてない!」というわけです。

そんな戦いで人生の時間を無駄になさるな。
そこに何かがあると思うのなら、掘ってごらんなさいな。

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