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戦国時代の畿内周辺の城は、特に石垣が多いのですか。 近江の六角氏の観音寺城...

unk********さん

2019/1/2423:27:14

戦国時代の畿内周辺の城は、特に石垣が多いのですか。

近江の六角氏の観音寺城跡、大和の高取城、摂津の芥川城跡、但馬の和田山竹田城など。

石垣を組んでいるお城と言うのは畿内周辺に特に多いのでしょうか。
関東では小田原城でさえ土塁だったのですね。
西国でも、中国地方や九州にも石垣のお城は少ないのでしょうか。

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ina********さん

2019/1/2508:04:29

いわゆる戦国時代以降の方式の石垣は近江の六角氏が築いた観音寺城の石垣は最初とされ、これを上洛の際に攻めた織田信長が見て、製作した穴太衆を支配下において囲い込んで自身の城に使ったことから普及したとされます。
穴太衆は瀬戸内海周辺を主に産地とする花崗岩を石垣の材料としたことと、織田・豊臣の勢力が西日本中心だったことから、石垣の城は中部地方より西に多く東や北に少くなっています。
戦国時代や江戸時代の様式の石垣は織田・豊臣・徳川の家臣になった大名が広めたものなので、西日本でも戦国末期までの城には石垣がほとんどありません。
しかし材料の調達が容易なため、桃山時代以降の城は石垣があることが多いようです。

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mo_********さん

2019/1/2508:41:30

城の最新技術は畿内で発生して、徐々に周辺へ伝播していきました。

石垣が城に取り入られたのも、畿内には大きな寺院が多いことも関係があるでしょう。

また、関東で石垣に使用するのに良い石の産地が少なく、江戸城の石垣も神奈川県の真鶴から運ばれています。

そのため、北条氏は土の土居や堀を独自に発展させ、障子堀などを使用しました。

小田原攻めに参加した諸大名が、自身の城作りにも北条流の技術を取り入れています。

秀吉の大坂城からも、障子堀の遺構が発見されています。

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