村上水軍と北信濃の村上氏は関係があるのですか?

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ありがとうございます。 河内源氏と言えば頼光の摂津源氏と並んで源氏では有力な筋ですよね。 その後本流になるのですね。 平家が強かった頃には摂津源氏との地位が一時逆転するのでしょうか。 北信の村上氏が河内源氏の血を伝えていたのは興味深いですね。 武田に追われるものの上杉氏の家来にしてもらって続くのですね。

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村上氏は、その出自を全く異にする者が各地に散在していて、戦国期に村上義清を出した村上氏は清和源氏頼信派と言われています。 『尊卑分脈』清和源氏第三頼信朝臣息男頼清頼季頼任義政流によれば、頼信の子に頼義・頼清・頼季・頼任・義政の兄弟があり、そのうち頼清の子の顕清が信濃国に配されてはじめて村上を名乗ったといいます(ただしそのような所伝があるだけであって、史料的な裏付けになるものは見当たらない)。 ちなみに顕清の子の為国は、義清から遡ること十二代前の人物です。 一方、村上水軍の村上氏も、出自を清和源氏の末裔と称しており、頼信の孫の仲宗からはじまるとされてますが、正否は定かではありません。 その系譜は大きく前期と後期に分けられます。 南北朝の争乱期に忽那衆に協力した村上義弘は前期村上水軍の最後を飾る棟梁です。前期村上水軍は源平の争乱のときに源義経に協力して屋島・壇ノ浦の合戦に参加していることから、この華々しい勝利にあやかって系図が作成された可能性があります。 この義弘は興国元年(1340)頃に急死しますが、彼には男子が無く、後継者が定まっていませんでした。 その頃、伊予国の南朝勢力テコ入れのため、北畠顕成が芸予叢島の能島に来ていました。顕成は南朝の勇将北畠顕家の子(つまり親房の孫)です。 後継者問題で困っていた村上一族は、顕成を棟梁に戴くことにし、彼もその申し出を受諾、義弘の女を娶って村上師清と名乗ることになったといいます。 北畠氏は清和源氏の村上氏と同じ源氏一門の村上源氏の流れを引いていますが、この顕成改め師清が本当に顕家の実子だったのかどうかは疑わしい点もあるとのことです。 ともかく、師清から後期村上水軍がはじまることになります。 師清の子の義顕に雅房・吉豊・吉房の三人の男子があり、能島・因島・来島の三家に分流することになります。有名な村上武吉は、能島を根拠とした雅房の流れになります。 以上、長くなりましたが信濃の村上氏と村上水軍の村上氏は、共に清和源氏頼信の子孫を称していますが、出自の裏付や根拠が弱く、両者には何の接点もありません。

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あると主張していたそうですが、村上水軍の方の出自は怪しいらしいです。 もし、関係があるとしたら、源盛満の二人の息子それぞれの子孫らしいです。