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現代哲学の主流が実存主義から構造主義に移った理由を教えて下さい。

no0********さん

2008/11/801:46:51

現代哲学の主流が実存主義から構造主義に移った理由を教えて下さい。

①戦後間もない1950年代は実存主義が流行していたが、70年代から構造主義が現代哲学の主流に取って代わった、というようなことをどこかで知りました。このことは現代に入って伝統・習俗やイデオロギーといった「大きな物語」が終焉、または衰退したことも一因にあるのでしょうか。或いは他に理由があるのでしょうか。
②また、実存主義が低調になったということは、実存主義に何かしら欠陥があったことを意味するのでしょうが、その欠陥を分かりやすく説明して頂けると嬉しいです。

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nyt********さん

2008/11/917:01:56

実存主義の敗北は、かなりはっきりと政治的な理由によるものです。

サルトルはもともと「実存は本質に先立つ」というスローガンを掲げ、自ら行動する中で未決定の本質を絶えず作り直していく人間の姿を描きました。
しかしサルトルはこうした純粋に哲学的な記述にとどまらず、やがて自分の思想を政治活動に結び付け始めました。「行動する知識人」という言葉が用いられ始めた時期のことです。
サルトルからすると、自分がどのような歴史的状況におかれ、そして人間の在り方をより良いものにするためにどのようなことをしなければならないのか、知識人はこうしたことを考え、そして実行しなければならないというふうになりました。
こうしてサルトルはフランス政府の帝国主義的な政策に反対し、例えば、アルジェリア戦争ではアルジェリアの独立を熱烈に支持したりしました。こうした傾向の中で、サルトルほど熱心に活動していないという理由で文壇を追いやられたのが、サルトルのかつての同志であるカミュです。

実存主義が終わり、構造主義が台頭するきっかけは、こうしたサルトルのやり方をレヴィ=ストロースが徹底的に批判したことです。
レヴィ=ストロースはソシュールの言語学を文化人類学に応用しました。そして次のことを発見しました。
①あらゆる社会がいくつかの二項対立の組み合わせで表現できること
②どの二項対立を取っても、一方の選択肢を他方より優先する客観的な根拠は存在しないということ
③それゆえある社会と別の社会との間に優劣を認めることはできないということ。
④それにもかかわらず、しばしばひとは自らの社会を他の社会より優位にあるとみなしたがること(「野生の思考」)。
そのうえでレヴィ=ストロースは、ある価値観(歴史における役割だとか)を熱烈に擁護して行動するサルトルの考え方が、④の野生の思考の典型例であり、ヨーロッパ中心主義に陥っていることを指摘しました。
これに対してサルトルは反論を試みるものの、レヴィ=ストロース以上に適切な根拠を挙げての反論をすることはできませんでした。
こうして、サルトルへの支持は衰えていくことになり、同時にサルトル流の実存主義はすたれ、構造主義が広まっていきました。



長くなりました。質問者さんのまとめ方に合わせて、以下に回答をまとめてみます。

①例えばマルキシズムが失敗したことや、民主主義が思いのほか広まらなかったことなどは、質問者さんのおっしゃる通り、サルトル流の実存主義の失敗と結びつくと思います。とはいえ、直接的にはレヴィ=ストロースとの論争に敗北したことが原因でしょう。もちろんこのふたつは関わり合っています。素朴な言い方で表すと「自分にとってよいものがひとにとってもよいはずだ」という考え方ではうまくいかないということです。

②実存主義の欠陥は、「実存は本質に先立つ」として本質主義を退けたにもかかわらず、その「実存」の定義をヨーロッパ的価値観に則って行うことで、「実存」を「新たな本質」にしてしまったことにあるのではないでしょうか。
もちろんこれは原理的な欠陥ではないかもしれません。サルトルの場合は安易に政治と結びつけたためにそういうことになりましたが、だからといってヤスパースやアレントのようなラインの思考が同じ失敗に至るとは限りません。
とはいえ、構造主義の射程が実存主義より広いのは確かだと思います。構造主義は異なる文化・時代同士の思考枠組の違いというものを理論の射程内に納めています。実存主義はそうしたことはそれほど考慮していないように思います。

質問した人からのコメント

2008/11/12 15:04:53

成功 丁寧な回答ありがとうございます。今まで実存主義と構造主義を対照的なものだと無意識に判断していたので、この誤解を払拭してくれたことに感謝。

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ggt********さん

2008/11/1005:55:08

個人的な意見ですけど,実存主義は思想的にはぜんぜん敗北していません。軽薄なミーハーが構造主義に乗り換えただけです。
構造主義の眼目は主体性の相対化で,1960年代の政治の季節が終わって,みんながんばったけど何にも変わらなかった!という諦めが蔓延したところを突いて広まったわけです。
最近,サルトルの復権はあちこちで指摘されています。

ber********さん

編集あり2008/11/901:16:15

哲学上の知見に関して、主流?だの反主流?だのといった判断は、無用、です。
哲学上の知見を心構え得てゆくに当たって、そんな判断には、何の有用性もないからです。
例えば、以下の文言が顕在的ないし潜在的に伝え得る事柄に対して、そういった判断が何らかの有用性があるのかどうか、冷静に考えて観てもらえばよろしいでしょう。 全く筋違いな判断対象を持ち出した、という事を自覚認識し得る所がある、と思われます。
[時間的な持続としての間がない一瞬ごとの空間などというものは、ないのだが、 我々は、その想堵(そうど:イメージ)を利用するのに慣れきってしまっている為に、
それが当たり前にあるものであるかの様に思い込んでしまっている所がある。
しかし、時の経過としての間が全く無い空間らをいくら時系列的に並べたつもりに成れたとしても、 それは、時間が欠けた空間を順次思い構えて観ているだけに過ぎず、 そこで、時間的な持続が再び成り立たせられるに至る訳ではない。
時の経つ間が全く無い、という事であれば、 それは、無に無を列ねようとする全く無理な試みでしかないのだが、
そこに空間への想堵が心構えて観られるために、 時間の欠如が無いが代にされ、
そういった諸空間の影らを時系列の観念上に並べさえすれば、
それで時間的な持続を伴った空間の諸相が得られたように思い為してしまうのである。
こういった思い違いの上に、
エレアのゼノン氏の運動否定説が、それ自らの成り立ちを得たのである。
彼らは、運動の影らを時間を欠いた一瞬ごとの諸空間に貼り付けて観た上で、 それらは、各一瞬においては、停止しているのだから、 明らかに持続し得ているものではない、と説くのだが、
彼らの言う運動なるものは、 運動そのもの等ではなく、その影のごときものを諸空間に
貼り付けて観た観念上のものでしかなく、
その諸空間には、運動的な持続に欠かす事のできない、時間的な持続がはじめから全く欠けているのである。]
以上、ここで、エレアのゼノン氏の所説が批判されているにしても、 それは、ゼノン氏の所説が曲りなりにも踏まえ得られようともしており、
必ずしも、取って代わられ得ようとしている訳でもなく、「主流」とか、「非主流」とかを問題にすべき何かがある訳でもありません。
現代哲学であれ、古代哲学であれ、それらの諸情報に触れて、自分なりの自覚認識の脈絡を茂らせて行き得る以上の理知的な精神性に富む人たちにとっては、
必ずしもそうではない人たちの思い込みによる持てはやしや非難含みの黙過などからもなる、何らかの「流行り廃り」めいたものの事など、どうでもよい事です。

not********さん

2008/11/806:55:47

no0866476さん。ありがとうございます。

私も知りたいです。
「実存は本質に先だつ」このことが。崩れると。サルトルの神の否定も崩れるのです。心配なもので。
余計な事を書かせていただきました。

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