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持統天皇に関する質問です。 日本書紀では彼女が即位したのは天武天皇の死後とい...

koutsuutarouさん

2019/4/623:37:01

持統天皇に関する質問です。
日本書紀では彼女が即位したのは天武天皇の死後ということになっています。
しかし、実際に即位したのは天智天皇の死後で壬申の乱はポスト持統をめぐる争いだった

、というような可能性は考えられますか?

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pin********さん

2019/4/713:14:13

「持統が天武(筑紫君薩野馬)の女で草壁皇子を生んだのは確かですが、持統の即位は無いですね」!
「筑紫君薩野馬(天武))」の次は、息子の「高市皇子」が即位です。
「壬申の乱」の経緯は、白村江で唐の捕虜となっていた「筑紫君薩野馬(天武)」が帰還すると、「白村江の混乱のどさくさに紛れて、天智が近江に政権を樹立しようとしています、これはまさに天智の乱です」。
そこで、「筑紫君薩野馬」は高市皇子に討伐を指示します。これが「壬申の乱」です。
この時代は、「倭国の評制」の時代で、九州は勿論、中国四国、近畿、東海、関東に及ぶ範囲が、倭国側で、最初から「天智―藤原系」には勝算がありません。
ここで、「天智―大友」は断絶します。
「倭国」の皇統は、「筑紫君薩野馬―高市皇子―文武(草壁の子ではなく高市の子)-元明―元正-聖武(文武の孫)-孝謙―淡路廃帝―称徳」まで継続しています。
この間の奈良朝政治の暗闘により、「天智―藤原系」が勝利し、「称徳」で断絶し「光仁(天智の孫)、桓武」の時代が到来します。
最終的に、「天智―藤原系」の史書である「日本書紀、続日本紀」は、「天智―大友」での断絶を回避し「光仁」に繋がなくてはなりません。
そこで、「日本書紀編者達は、トンデモナイ策を講じます」。
「日本書紀の持統紀の最終行に、堂々と記述されています」。
「天皇は、宮中での策(はかりごと)を決定されて、皇太子に天皇の位をお譲りになった」。
「持統の即位」により、「天武と持統の子の草壁と阿閇の子が文武」であるとの「策」を講じて、「天智―大友」以後の断絶を隠蔽したのです。
と言うトンデモナイ解釈はどないでしょうか!

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dok********さん

2019/4/707:49:15

日本書紀では持統天皇が即位したことになっていますが、実際に天皇だったかは不明です。
有名な文武天皇の即位の経緯を記した懐風藻の葛野王の傳記では「高市皇子薨後、皇太后引王公卿士於禁中、謀立日嗣。」の一文があります。つまり、懐風藻は暗に高市皇子が天皇であって、鵜野讚良皇女は持統天皇ではなく皇太后だったと示唆しています。当然、この史実は高市皇子の御子である長屋親王を殺した聖武天皇には都合は悪いですが。

ご存知のように天武天皇の詔からすると皇族の母親でない聖武天皇は天皇になれない諸王ですが、長屋親王を誣告によるクーデターで殺すことで政権を奪取しています。
日本後紀は現在の日本書紀と続日本紀は、同じく天皇になれない母親を持つ桓武天皇の時に全面改訂したと記録し、それと合わない記録は焚書したと報告します。

真面目に歴史を調べるとこのようなものに出会います。
歴史学者の現代語訳は先輩の学説に合わない過去の記録があると「超訳」をして、先輩の学説に合わせる善き風習があります。ですから、丁寧に原文から真実を調べる必要があります。

sss********さん

2019/4/706:22:11

ありません。
天智天皇の後に即位できるとしたら天智天皇后の倭姫王です。

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