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室町(足利家)幕府の衰退について教えてください。 応仁の乱が幕府の有力家臣...

jmg********さん

2019/5/513:36:20

室町(足利家)幕府の衰退について教えてください。

応仁の乱が幕府の有力家臣の間で起こりましたよね、それも10年くらいも。

その10年間幕府は、争いを止める力が無かったということになりますよね。

だとしたら、足利家はいつから力が衰えだしたんですか?

また、力が衰えだしたとしたら、原因(例:鎌倉幕府における元寇)のようなものはあったんですか?

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大和さん

2019/5/513:51:01

足利幕府が全国政権だったのって三代足利義満の時だけですよ。

そもそもの成り立ちが、有力御家人たちの領地のペイのために担がれた御輿に過ぎないので。
自前の領地、兵力も大したことないから有力御家人の争いを鎮定出来ない。

だからこそ、日本最大の大名だった家康の幕府は強力だったのです。

質問した人からのコメント

2019/5/5 19:10:51

皆さん詳しく解説頂き感謝です。足利家はただの神輿だったんですね。BAは最初にご回答頂いた方に。

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jun********さん

2019/5/514:26:39

元々、足利政権は、武士同士の紛争仲裁能力が、
鎌倉幕府と比べても、極めて脆弱な体質です。
まず、全国各地の地方武士同士の土地争いや水利権紛争は、
各国の守護に丸投げしてしまっていて、
このため守護の権力が、鎌倉時代に比べ増大します。
そして、守護大名間の紛争についても、
幕府の意向に反した守護大名を征伐しても、
その家を滅ぼすには至らず、勢力を削減する程度の、
制裁力しか持っていません。

この脆弱な幕府権力を強化しようと試みたのが、
六代将軍の足利義教です。
御前沙汰といった、将軍自身の決済権を強化し、
奉公衆という直属軍強化にも努めますが、
そう言った高圧的姿勢が裏目に出て、有力守護大名の赤松満祐に、
暗殺されてしまいます。
しかし、現将軍の殺害といった、大事件が起きたにも関わらず、
幕府は赤松氏追討に半年以上の時間を費やしてしまい、
その非力さを露呈してしまいます。
この結果、皮肉な事に足利将軍の権威は更に失墜し、
応仁の乱を迎える事となる訳です。

wkp********さん

編集あり2019/5/514:11:24

元々、守護大名の集合政権のようなものです。
足利という源氏の血筋と、それに伴う、
征夷大将軍 の官位の権威で、守護大名の上にたっていました。

後の徳川幕府のような、大名を寄せ付けないほどの、
経済力、軍事力を持っていません。

ですから、ある守護大名を討伐する場合は、
有力守護大名を、将軍の名代として、任命して、守護大名を戦わしていました。

元々、幕府開幕時には、南北朝という、二人の天皇が、現存する、不安定な時代でした。三代将軍義満の時、南北朝が統一され、安定期を迎えますが、
もう既に、守護大名は、大大名に成長し、
一人で数ヵ国の守護大名を兼任するものも、いたくらいです。
幕府の直轄地は、山城つまり、京の都と、その周辺部にしかなく、
当然、独力で、守護大名を押さえることができないため、

守護大名同士を牽制させた上で、勢力バランスを保つことで、
幕府政権を維持していました。

2019/5/514:07:28

室町幕府は、その成立時に、南北朝の相克という難題を抱え込んでいました。
そのため、常に臨戦態勢であらねばならず、有力家臣や守護大名たちから力を削って強力な幕府体制を築くことが出来なかったのです。

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