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尼崎七松での荒木郎党の処刑は、完全な史実ですか?それとも、後世に作られた伝説...

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ID非公開さん

2019/5/2200:00:04

尼崎七松での荒木郎党の処刑は、完全な史実ですか?それとも、後世に作られた伝説ですか?

本当にここまで残虐なことって起こったんでしょうか?

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tan********さん

2019/5/2821:05:07

12月13日に尼崎七松、12月16日に京都六条河原と、
荒木村重関係者の処刑が行われたのは史実でしょう。

「有岡城内に閉じ込められた女子供達に関しては、誠に不憫であるが、卑怯な輩への見せしめの為、一人残らず処刑すべし」
と織田信長が命令しています。(信長公記)

さらに処刑に関しては、
奉行・蜂屋頼隆、検使役・矢部善七郎家定とあります。

問題はその処刑の具体的な事ですが、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

信長公記
伊丹城相果たし御成敗の事 天正7年12月13日

「辰刻に百二十二人尼崎ちかき七松と云所にて可被張付に相定各引出候さすが歴々の上﨟達衣装美々敷出立叶わぬ道をさとりうつくしき女房達並居たるをさもあらけなき武士どもが請取其母親にいだかせて・・・」


『辰の刻に122人が尼崎の近くにある七松という所で磔にかけられると決まった。さすが身分の高い者たちだけあって美しい衣装を着ての出立であった。もう助からないと悟る美しい女房たちを荒々しい武士どもが引き受け、其の母親に抱かせて引き上げ磔にかけた。鉄炮で撃ち殺し、槍や長刀で刺し殺された。殺害された122人の女房たちは一度に悲しみの叫び声をあげ、天にも響くばかりだった。見ている人は目がくらみ心が消え涙を抑えられない。廿日、参拾日その有様がちらつき忘れることは出来なかった。この他女が388人、これは身分の低い侍の妻子とお着きの者たち。男が124人、これは身分の高い女房たちの付き人の若党。合わせて510余人。矢部善七郎、四つの家に詰め込み、草を積み焼き殺した。風がまわるに従って魚群のように上を下へとなみより焦熱大焦熱の炎に咽び踊り飛び上がった。悲しみの声、煙につれて空に響く獄卒の責めのようだ。みな肝魂を失い二度見ようとする者はいなかった。哀れ過ぎて何も言えなかった。』

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太田牛一が信長公記において、
かなり長くしかも感情をこめて表現しています。
牛一にとって衝撃を受けた大事件だったという事です。
奉行の蜂屋頼隆か、検使の矢部家定に詳しく聞いたのだと思われます。
ここまで人数をはっきり書いているということは、
信長宛の矢部家定の詳細な報告書があったのでしょう。
122人磔、512人火炙、これは信用していいと思われますが。

・・・

12月16日、荒木村重一族・重臣、36人の公開処刑が開始されます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「此外車三両には子供御乳付々七八人宛乗られ
上京一條辻より室町通洛中をひかせ六條河原迄引付らる・・・」


『この他3両の車には子供、御乳付けらが7、8人乗らされた。
上京一条辻から室町通を引かれ六条河原まで連れてこられた。
(略)
だし(村重の妻)は美人で有名であった。かつては人の目に曝されることはなかったが、時世に習いに従い、荒々しい雑色どもは手で小肘を掴んで車に引き乗せた。最後の時、だしは車を下り帯を締め直し、髪を高々と結い直し小袖の襟を押し引いて乱れることなく首を斬られた。
(略)
久左衛門の息子の自念は14歳、伊丹安大夫の息子は8歳。二人はおとなしく『最後の所はここか』と申して敷き皮に直り首を斬られた。これをみた貴賤で褒め称えない者はなかった。『栴檀は二葉より芳し』とはこのことであった。荒木村重一人の為に一門親類の多くが四鳥の別れに血の涙を流した。彼らの恨み恐ろしやと舌を巻かないものはいなかった。兼ねてより頼んでいた寺々の僧侶が死後を取り隠した。これだけの御成敗はいままでないことだった。』

これは相当数の見物人が集まったらしく、
とくに「だし」は「一段美人に候」と話題になったようです。
(NHK軍師官兵衛で映像化されましたが、他にあるのか知りません)

・・・

ルイス・フロイス日本史第3巻
「信長による凄絶な処刑」

立入宗継
「このような怖ろしきご成敗は、仏の御代よりこの方の初めてだ」

本願寺顕如
「こうなれば、有岡や三木と同じようになってしまうと
眼前の敵(信長)を見ながら思う」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※処刑され埋葬された人骨が発掘?された

寺阪五夫「立花志稿」
「摂津守殿子孫迄仕置にす、七松村東芦原と申所に爾今、
はつつけ田(磔田)の異名在・・・」

「東芦原は三反田の小字で七松集落の東に位置する。
七松の集落に近いので、処刑地が七松と伝えられたのであろう。
この地に東海道線敷設の際取り壊された、
元坊主塚と云う称する古墳があった。
村重一族被処刑者の遺骸を合葬したのではないだろうか」

建設工事の際に人骨が出土した事があるそうですが、詳細不明です。
処刑場が正確にどこであったのかもわかっていません。

・・・

処刑はこれで終わりではなく、

「その後も信長は、避難していた荒木一族を見つけ次第
皆殺しにしていくなど、徹底的に荒木村重を追及していった」

天正8年(1580)3月
荒木村重の残党5人が高野山内に逃げ込み、
これを察知した信長は7月に前田利家・不破光治を使者として
高野山へ差し向けたが、高野山側はこれを拒否した。

8月、堺政所の松井友閑配下の足軽32人が山内に入り、
荒木残党の捜索を行ったところ、高野山側によって全員殺害された

9月、報復として信長は諸国の高野聖を捕えるよう命じた。

天正9年(1581)8月
信長は高野聖数百人を京都安土において処刑した。

10月、信長は高野山攻めを発令する

天正10年(1582)6月21日
「本能寺の変」

信長の死により、荒木村重と高野山は命拾いします。

・・・

荒木一族の生存者

荒木村重
荒木村次(嫡男)
荒木村基(次男)
村次の子の村直(岩佐又兵衛?)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

回答

「天正7年12月に、122人磔、512人火あぶり、36人斬首、
荒木村重関係者の処刑が行われたのは史実でしょう。
その後の荒木残党狩りでさらに処刑があったと推定。
よって処刑された総人数は不明です」

「一族郎党の処刑としては日本史上類を見ないほどです」

「さらに張本人とその息子たちが処刑を逃れたというのも、
まったく類の無いことです」

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質問した人からのコメント

2019/5/28 23:51:33

大変詳細にありがとうございます。

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