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戦国の島津家は、大友と龍造寺との争いを制して九州の覇者となり、朝鮮出兵や関ヶ...

g19********さん

2019/5/3006:40:25

戦国の島津家は、大友と龍造寺との争いを制して九州の覇者となり、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いでも、猛烈な強さを見せてます。特に関ヶ原では、西軍は負けましたが島津家は、徳川家康を本気でビビら

せるほどの相当な強さを残したと聞きます(そして、その後もほぼ領土没収等はなし)。どうして、こんなに強かったんですか?

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jun********さん

2019/5/3013:21:14

戦国時代に強兵として有名だったのは、
越後上杉氏、甲斐武田氏、薩摩島津氏ですが、
いずれも共通しているのは、その領土が余り農業生産性が、
良くない地域だという事です。
甲斐は平野が少なく、越後は寒冷地(越後で米の収穫量が増えるのは、
江戸時代になって、稲の品種改良が行われてからです)、
そして薩摩は火山灰土壌です。
これらの地域は、外征し豊かな土地へ進出しないと、
貧しいままだから、自然と兵が強くなっていったのです。

ただ、徳川家が関ヶ原の後、島津を処分しなかったのは、
兵の強さより、地理的な条件の方が大きいでしょう。
大軍を編成し、九州の南部まで派遣するのは、
上杉征伐などより、遥かにコストがかかります。
遠征が長期化すれば、出征した諸大名の不満が高まり、
家康の求心力が低下するから、そのままにした、
と考えた方が良いでしょう。

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ren********さん

2019/5/3121:34:23

兵の強い大名(甲州兵・越後兵・三河兵・薩摩兵・土佐兵)は基本的にはほかの国よりも貧しいという特徴があります。
貧しいということは他所に行かねば飢えます。つまり戦争で国を富ますのです。
そうなれば必然的に実践経験が増えて兵士も強くなります。
ただ薩摩兵はどこまで強いかというとかなり怪しく、大勢力との戦争の多い越後兵や甲州兵や三河兵と比較すると群雄割拠の傾向の強い九州では小規模戦闘がメインです。
あと島津義弘も嘆いていますが薩摩兵は勢いがあるときは強いが挫けると一気に弱くなると語るほど良くも悪くも高低差のある兵士というべきかもしれません。
明治以降の近代軍隊でも肥後や肥前の出身者は強兵といわれるのに薩摩出身者は強兵とは呼ばれません。

yur********さん

2019/5/3119:48:36

①命知らず
②破壊力、突撃力、奇襲攻撃力、剣術。
③鉄砲(火縄銃)
④統率力、団結力、戦術(捨て奸、釣の伏せ)
⑤黒豚、黒牛

①命知らず
命知らずが一番強い!というか、怖い!
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が宗教弾圧に真剣だったのは、強い、というより、命知らずの集団が何をしでかすか、怖かったからです。

島津軍は鬼島津こと島津義弘を心の底から愛していた。島津義弘の人柄があり、神の如く崇拝していた。
西郷隆盛や大久保利通、篤姫を育て上げた島津斉彬は西郷隆盛らから尊敬されていた人物。その島津斉彬が尊崇していたのが、戦国最強武将の島津義弘。
「島津義弘に命を捧げてもいい」という薩摩隼人の忠誠心は異常であり、島津義弘への愛情が最強集団と化した。

②破壊力、突撃力、奇襲攻撃力、剣術。
天下分け目の関ヶ原の戦い。
徳川家康率いる東軍は【8万】の大軍。そのド真ん中を島津軍はたった【300人】で敵中突破した。
家康軍をブチ抜いた!
徳川四天王の井伊直政は銃撃され後に死亡。本多忠勝は落馬、転倒。(関ヶ原合戦図塀風に描かれている)。福島正則軍は圧倒され攻撃を中止。家康四男、松平忠吉も島津軍の奇襲を食らい負傷している。
毎日朝、昼、夜、島津軍の練習、訓練は過酷であり、実践的であった。
〔小勢にて大軍制す!〕
は島津家の真髄、醍醐味である。又、島津家の作法、剣術に示現流がある。
「一の太刀疑わず、二の太刀無し!」。
空手の「一撃必殺」、「先手必勝」の極意は、戦国時代の真剣勝負、瞬時に生死を分ける究極の秘技から生まれていた。まさに示現流から伝承された奥義である。
現在も警視庁の教本には示現流が記載されている。

③鉄砲(火縄銃)
1543年日本最初に火縄銃を使用した者は島津家の種子島時堯。1549年日本最初に火縄銃を合戦に使用した武将は島津家筆頭家老の伊集院忠朗。(加治木城攻め、黒川崎の戦い)。
鉄砲実践使用は伊集院忠朗が発祥。
伊集院忠朗の「繰り抜き」(火縄銃の3列縦帯連続射撃法)を織田信長がお手本にしていた。
本家本元、島津軍の射撃法は的確であり、冷静沈着、迅速、機敏であった。

④統率力、団結力、戦略(捨て奸、釣の伏せ)
釣の伏せも伊集院忠朗が考案している。
命知らずの危険な集団の統率力、団結力は戦国屈指。

⑤黒豚、黒牛
医学的にも注目されている島津軍の蛋白質。
当時、1600年以前からお米、炭水化物を摂取していた者と、肉食、薩摩隼人の戦闘力に差が出ていたと分析されている。
桜島火山の大地は米が育ちにくい観点から黒豚、黒牛を薩摩隼人は食べていた。薩摩隼人は肉食獣だったのだ。

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aar********さん

2019/5/3010:22:16

強くもなければ家康もビビってないです。

そもそも、島津、というか九州兵は軍制も装備もボロボロで当時は弱兵扱いされていました。

九州征伐の際は、九州兵の装備があまりにみすぼらしく畿内兵の嘲笑をかっています。しまいには地元の兵が委縮するので馬鹿にするのを辞めるように秀吉へ嘆願が出され禁止令が出されました。

当時の九州勢の軍装はバラバラな蛮風であり、機内や東国の統一された軍隊とはまるでちがい、本州の人間から見てどうみても雑軍の様相でありました。

また鉄砲の装備率は島津も同程度あったようですが、性能面ではるかに劣っており、島津では武士でも足軽の使うような射程の短い安い鉄砲を使われていました。南蛮貿易が活発で装備が強いイメージを持たれますが現実は本州の技術革新に置いて行かれむしろ貧相なありさまでした。

当時の資料によると、西国は騎馬から降りて徒歩で突撃していたとされているように東国と違って西国では騎兵をまともに扱えていません。規模も東国の数分の一の人数比であり練度規模双方において弱小です。江戸時代の薩摩の軍学者の書によると、島津の軍法には「騎馬組」がなく、島津日新斎( 忠良)以来、所々の戦ひに馬入・騎戦を用たる事」がないと述べています。


関ヶ原を引き口にて撤退したことは当時、賞賛されていました。ですがそれは別に島津兵の屈強さを褒めたたえたわけではなく、豪胆さを褒めたものです。
捨て奸は後世の創作です、当時の人間にそんなトンデモ行為の記録を残してません。なお、本陣に残って影武者として敵を引き付け戦死した家老の長寿院盛淳についての記録にこんなものがあります。

本陣に残り敵を二度まで退けたが、三度目には兵が臆病風にかかり後ろの「堀」に逃げ込んだ。味方の怯きょ懦うだに盛淳が激怒して大声で叫んだ。「薩摩まで五百里もある。たとえ逃れても遠い。(逃げた者は)いずれも面つらを見知っているぞ」(井上主膳覚書)

なお、この本陣で戦死した筈の長寿院盛淳、何故か鳥頭坂で島津豊久と一緒に福島相手に捨て奸したことにされていますが、双方この場所にいないし、そもそも福島勢は島津と戦った当時の記録はありません。(むしろ両家の記録には戦いを避けたとある)これらの捨て奸の逸話はもっと後世に作られたものの寄せ集めです。


家康が島津を許したのは関ケ原で捕らえられた家老の旅庵から、義弘は西軍の首謀者 などではなく、義久の三女亀寿が忠恒夫人で、大坂に人質になっていたため、致し方 なく西 軍に属したと弁明した結果です。そのため、最初期から、義久・忠恒が義弘の反逆に同意していないのであれば、島津氏の存続もありうると既に提示されていました。なお、これは義弘帰国前から既に始まっています。このことからも巷で言われるような義弘が帰国して弁明させなければ島津が滅びるから捨て奸したなどという風聞が見当違いだとわかります。

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fbb********さん

編集あり2019/5/3009:02:28

示現流剣術の達人の集団だからと思います。
先の質問者回答者のお話で気づいたが以下説明。
多分示現流は鉄砲や釣野伏と合わさないと意味ないです。囮と伏兵を兼ねた捨てかまりもある。
最初の一太刀に全てをかける。なんか変だと思ってました。当時は原則は種子島火縄式銃だから連発じゃないですね。円陣と銃剣と後装銃の陣形はこれは田原坂の官軍の薩軍抜刀隊に対応したやり方。同じものを感じる。島津の大将は必ず供回りを数人火縄を点火した火縄銃を供に持たせ、自分も火縄銃を同じものを持ち戦っていた。今で言う連発銃です。極めて戦意ある強力な軍。家康がためらうわけと思います。上杉武田でも難しい。
司馬遼太郎氏の言葉です。長々とすみません。
追記。郷中制度は軍団組織そのものです。なお
私見は不十分。ほかの方々の声は大切です。

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nad********さん

2019/5/3008:09:57

島津が強かった理由としては鉄砲です。
鉄砲を他の大名よりも早く手に入れたため、早くから鉄砲による扱いに兵士達は慣れていました。
そのため鉄砲を扱った難しい作戦などを練ることが出来たのです。
それに加えて、島津義弘と島津家久の2人の力もあるでしょう。
この2人は頭の切れた武将で釣り野伏せと呼ばれる特殊な戦い方を実践していきます。
ただ鉄砲が島津領土である種子島に流れつかなかったら、九州は大友のものとなっていたでしょう。

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