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もし三方ヶ原の戦い後、信玄の体調に問題なかったら、浜松城総攻撃の選択肢もあり...

s52********さん

2019/6/923:12:46

もし三方ヶ原の戦い後、信玄の体調に問題なかったら、浜松城総攻撃の選択肢もありえましたか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

kaw********さん

2019/6/1105:00:09

武田信玄の書状『伊能文書』や武田軍の行軍ペースなどから、三方ヶ原の戦い以後の信玄は織田との戦いを想定し始めていたため、家康は眼中に無かったと思われます。
そのため、浜松城総攻撃もなかったものと推察します。


まず1572年12月22日。
武田軍は三方ヶ原の戦いにおいて、徳川軍を破ります。
しかし、同時期に活動していた朝倉軍が、当初の約束を破り、近江から撤退してしまいます。

12月28日。
信玄は、朝倉軍が撤退したことを知り、朝倉義景宛に書状『伊能文書』を送ります。
それには、
・三方ヶ原の戦いで勝ったこと、
・朝倉軍の撤退に驚いたこと、
・織田信長を滅亡に追い込めるチャンスを放棄することになること、
・朝倉義景の判断は間違っていることへの説得
などが書かれています。

1573年1月3日
ようやく信玄は動きだし、遠江から三河へ侵攻。

つまり、三方ヶ原の戦い後では、信玄は徳川よりも織田へ目を向けていることが推察できます。


また、武田軍は三方ヶ原の戦い以後、10日間も三方ヶ原に近い場所で停滞し、動きませんでした。
『甲陽軍鑑』などでは、浜松城を攻めなかったのは時間がかかるという理由でしたが、武田軍は10日も何もせずに停滞しています。

もし、浜松城を本格的に攻めるつもりが少しでもあったのなら、この停滞は説明できません。

さらに、三河の野田城を囲んだ際に、徳川家康も武田軍を追い、三河に着陣します。
もし信玄が家康を討つ意志が強いなら、追いかけてきた家康に対して、何かしらのリアクションを取ったと思われまます。

しかし、信玄は家康が率いる徳川軍本隊に対して、何ら行動をしていません。

つまり、浜松城を攻める(家康を討ち取る)意思はなく、浜松城以外の攻撃目標や、情勢の見極めに、注意が払われていたと推察します。

ですので、信玄の中では、三方ヶ原の戦い以後に浜松城を総攻撃する考えは無かったと考えられます。

質問した人からのコメント

2019/6/11 09:12:47

よくわかりました。
ご回答ありがとうございます。

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wkp********さん

2019/6/1000:12:48

浜松城を攻撃しなかったのは、信玄の健康が優れなかったわけではありません。

あえて無視することで、武田軍の背後をみせ、籠城戦から、
野戦へと、徳川軍をおびきだしたのです。

そこで徹底的に叩いたため、徳川軍に、追撃戦は無理と判断したためです。
別動隊の、秋山軍が落とした岩村城との距離をつめただけです。

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jun********さん

2019/6/923:58:41

浜松城を総攻撃はしないでしょう。
それより、浜松城を囲んで、これを餌として、
信長が出陣してくるのを待ち、決戦を挑もうと、
考えたと思います。

同盟者の家康を見捨てては、信長の威信が失墜するので、
信長はどうしても、今度は自らが援軍を率いないとなりません。
これを叩けば、畿内周辺の反信長勢力は勢いづき、
信長政権は瓦解をしてしまいます。

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