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【お墓に入りたくありません】 閲覧頂き有難うございますm(_ _)m 父方の実家に...

lui********さん

2019/6/1023:33:35

【お墓に入りたくありません】

閲覧頂き有難うございますm(_ _)m
父方の実家にお墓に入りたくないという事でこの場を借りて相談があります。

私は九州在住で、25年以上九州と共に育って

きました。
最近親類のお葬式〜納骨に行った際「自分も死んだらここに入るのかな」と冗談交じりに言ったら、母から「あんたの性は○○(父方)なんだから○○のお墓でしょ」と返されました。

さて、本題はここから。
父方(祖父)のお墓は東京にあり、お墓参りに行く機会があったのですが非常に狭く、ビルや建物に囲まれた場所でした。
都会を貶すつもりでは無いのですが、元々自然の多い所で育ってきたので、如何せん空気に慣れません…
自分が死んだ時にここに入る事になるのかと思うと、あまり気分の良い話ではなく…
現在も元気に働いている父と、亡くなった祖父の事は尊敬しておりますが、都会のお墓だけはちょっと…と言った状況です(-_-;)

まだ若いのに先の事を考え過ぎと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、
父方のお墓に入らずに済ませる方法は無いでしょうか?
よろしくお願いしますm(_ _)m

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you********さん

2019/6/1722:05:06

ご心配なく!死後はそんなところにおれません。
釈尊も浄土真宗の親鸞聖人も仰せです。


浄土真宗の親鸞聖人は、

「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても
申したることいまだ候わず」(歎異抄第五章)
意訳
親鸞は、亡き父母(先祖)の追善供養のために、念仏一遍、
いまだかって称えたことがない。


葬式や年忌法要などの儀式が、死人を幸せにするという考えは、
世の常識になっているようです。


インドでも、釈迦の弟子が、「死人のまわりで有難い経文を唱えると
善い所へ生まれ変わるというのは本当でしょうか」と尋ねています。

釈尊は、黙って小石を拾い近くの池に投げられ、沈んでいった石を
指さし、「あの池のまわりを、石よ浮かびあがれ、浮かびあがれ、
と唱えながら回れば、石が浮いてくると思うか」 と反問されています。

石は自身の重さで沈んでいったのであり、そんなことで石が浮かぶ
はずがなかろう。

人は自身の行為(業力)によって死後の報いが定まるのだから、他人が
どんな経文を読もうとも死人の果報が変わるわけがない、と説かれて
います。

読経で死者が救われるという考えは、本来、仏教になかったのです。
釈迦八十年の生涯、教えを説かれたのは生きた人間であり、常に苦悩の
心田を耕す教法だったのです。
死者のための葬式や仏事を執行されたことは一度もなかったと言われて
います。

むしろ、そのような世俗的、形式的な儀礼を避けて、真の転迷開悟を
教示されたのが仏教でありました。

今日、それが、仏教徒を自認している人で も、葬式や法事・読経などの
儀式が、死人を幸せにすることだと当然視しているのです。
その迷信は金剛のごとしと言えましょう。

そんな渦中、
「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したること未だ候わず」
の告白は、まさに青天の霹靂であるにちがいありません。

ここで「孝養」とは「追善供養」であり、死んだ人を幸福にすると信じら
れている行為のことであります。

四歳で父を失い、八歳にして母を亡くされた聖人の、両親を憶う切なさは、
いかばかりであっただろうか。
亡き父母は、最も忘れえぬ聖人の幻影だったでありましょう。
そんな聖人が、
「父母の追善供養のために念仏を称えたことなど、一度もない」と
言われる。
無論これは 、念仏だけのことではありません。亡き人を幸せにしようと
する読経や儀式、すべての仏事を「念仏」で総称されてのことです。

言い換えれば、
「親鸞は亡き父母を喜ばせるために、念仏を称えたり読経や法要、
その他一切の仏事をしたことは、一度もない」の断言だから驚くのです。

「死者の一番のご馳走は読経だ」などと、平然と先祖供養を勧めている
僧侶や、当然のようにそれを容認している世人には、如何にも不可思議
な聖人の発言であり、“なんと非情な”と冷たく感ずる人もありましょう。

だが、誰よりも父母を慕われた聖人が、衝撃的な告白で根深い大衆の
迷妄を打破し、真の追善供養のあり方を開示されているのが、この章
なのです。

かつてした ことがないと聖人が言われる、葬式や法事を本分のように
心得ている僧侶らを嘆く、覚如上人(聖人の曽孫)の教誡を挙げておきま
しょう。

『某(それがし/親鸞)閉眼せば賀茂河に入れて魚に与うべし」と云々。
これすなわち、この肉身を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由をあら
わしまします故なり。これをもって思うに、いよいよ喪葬を一大事と
すべきにあらず。もっとも停止すべし」
意訳
「私が死ねば、屍を賀茂河に捨てて、魚に食べさせよ」と、しばしば
親鸞聖人が仰ったのは、なぜか。それはセミの抜け殻のような肉体の
後始末よりも、永遠の魂の解決(信心決定)こそが、最も急がなければ
ならないことを教導されたものであります。
されば葬式などを大事とすべきではあるまい。やめるべきであろう。

仏教界は、今や病膏肓に入ると言えましょう。
今にして聖人のご金言を噛みしめなければ、残るは死骸の仏教のみとな
るでありましょう。

では葬儀や法要・墓参は全く無意味なのかといえば、仏法を聞いた人に
は仏恩報謝・法味愛楽、仏法を知らぬ人には仏縁ともなるでしよう。

毎年、多くの交通事故死が報じられいます。「昨年は何千人交通事故死」
ときいてもすこしもおどろかない。ただ漫然と数字を見るだけで、「死」
については、まったくマヒしていないだろうか。

忙しい忙しいと朝夕欲に振り回され、自己を凝視することがない。
そんなある日、葬儀に参列したり、墓前にぬかずく時、人生を見つめる
得難い機会になることがあります。

「オレも一度は死なねばならぬ。酔生夢死ではなかろうか」
否応なしに冷厳な真実を見せつけられ、厳粛な思いにさせられます。
願わくは、単なるしきたりに終わらせず、自己の後生の一大事を感得し、
解脱を求める機縁としたいものであります。

  • you********さん

    2019/6/1722:09:11

    今、話題のアニメ映画『歎異抄をひらく』が全国の劇場で
    上映中ですが私、観てきました!


    その中での聖人のお言葉に感動しました。




    聖人「アサ。久しぶりだな」

    アサ「……」

    聖人
    「父上と母上を亡くして、つらかったろう。私も四歳で
    父を、八歳で母を亡くしている。そなたの気持ちが少しは
    分かるつもりだ」

    アサ
    「……私は親不孝者です。おっ父とおっ母の葬式もしてやれ
    ませんでした」

    聖人「葬式など、しなくてもいいよ」

    アサ「え……?」

    聖人
    「私は、亡くなった父や母の供養のために、一度の念仏も
    称えたことはない。念仏を称えても、亡くなった者を救う
    ことはできんからな」

    アサ
    「……じゃあ、おっ父とおっ母は、もう助けられないって
    いうことですか?」


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hyp********さん

2019/6/1218:43:37

人間の本質は魂なので、死んだら死後の世界(幽界と霊界)へ行きます。
お墓のなかで暮らすわけではありません。

あそこは、カルシウム(骨)が置かれるだけです。

どこのお墓へ入っても、過ごすのは幽界と霊界です。

spr********さん

2019/6/1023:41:40

まあ一番簡単なのは
自分で金をためて、自分用の
永代供養の墓地を購入すればいいでしょう

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