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すみませんが、一つ質問させてください。 また甲陽軍鑑に関することです。

oia********さん

2019/6/2620:05:17

すみませんが、一つ質問させてください。
また甲陽軍鑑に関することです。

kaw********さんは他の方の質問への回答で、
「これは、著者(原作者)とされる高坂昌信(春日虎綱)が、信玄前期は武田家に仕えていないので、上田原の戦いなどを正確に把握していないため、矛盾を生じたと思われます。」
とおっしゃっています。

これは、上田原の戦いの時点では、高坂昌信(春日虎綱)はまだ武田家に仕えていなかった。
その為、戦いについて正確に把握していなかった。という意味にとれると思います。

しかし、他ならぬ甲陽軍鑑には、品第五に「自分は信玄公が22歳の時から近習として仕えた」と書かれています。
信玄が22歳の時という事は、天文11年(1542年)から仕えていた事になると思います。
だとすると、1548年の上田原の戦いについて、「武田家に仕えていなので正確に把握していない」とするのは適切ではないと思うのですがいかがでしょうか?

それとも、kaw********さんとしては、虎綱が武田家に仕え始めたのは、1548年よりも後であるとのお考えでしょうか?
もしそうなら、その根拠を教えていただきたいと思います。

ただ、その場合、甲陽軍鑑の作者があくまでも高坂昌信(春日虎綱)だと考えると、自分の仕官した年すら誤って書いている事になってしまう訳ですが。

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ベストアンサーに選ばれた回答

川崎さん

2019/6/3014:37:39

こんにちは。なかなか忙しくて回答が遅くなり申し訳ありません。

そうですね。そのとおりだと思います。
私の思い違いでした。

  • 質問者

    oia********さん

    2019/6/3016:16:04

    了解しました。

    実は、この事に関する私の認識は少し複雑です。

    私は、基本的には高坂弾正が武田に仕官したのは天文11年であると前提にしおり、実際元の質問にもその前提で回答しています。
    しかし、そう書いてあるのが他ならぬ甲陽軍鑑ですので、年代違いの可能性もあり得るのではないか、とも考えてもいます。
    特に私は甲陽軍鑑の原作者は高坂弾正ではないと考えているので尚更です。
    ですので、他の史料に仕官の年に関して別の内容が書かれていれば、そちらが優先になる可能性が高いと思っています。

    なので、いろいろ考えている内に、kaw********さんが上記のように回答している以上、私が見落としている史料等があり、間違っているのは私の方だったかもしれない。不正確な回答をしてしまったのは私の方だったのかもしれない。との考えに思い至り、今回念のため質問させていただきました。

    回答ありがとうございました。

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質問した人からのコメント

2019/6/30 16:55:28

ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

真田 遼さん

編集あり2019/6/2621:38:04

本人ではありませんが、wikiによれば↓
天文11年(1542年)に父大隅が死去した後、姉夫婦との遺産を巡る裁判で敗訴して身寄りが無くなるが、信玄の奥近習として召抱えられたという。
とありますが、高坂昌信(春日虎綱)が信玄の色小姓(?)だったのは有名な話ですので1542年以前の可能性もあります。
また近年甲陽軍鑑末書の発見により甲陽軍鑑は記録ではなく、記憶録 回想録として書かれた可能性が高い。
ですので年の間違いや記憶違いなどは当然普通にあるものと考えながら考証すべき文献です。
武田に関する史書が少ないので、甲陽軍鑑原本及び末書から他の史書との相違点を考えていけば全てではなくともある程度信頼出来る書物かと思われます。

注)また甲陽軍鑑初期は山本勘助が書したとする説もあります。

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