ここから本文です

古代、中世のヨーロッパの戦争で城を落とした場合その城の住人ってどうしてました?

アバター

ID非公開さん

2019/7/1017:00:57

古代、中世のヨーロッパの戦争で城を落とした場合その城の住人ってどうしてました?

閲覧数:
18
回答数:
4

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

him********さん

2019/7/1019:32:36

古代ローマは破城槌が城壁にたどり着く前に降伏した都市の住人に対しての略奪は禁止していました。逆にその時点でも降伏しなかった都市は徹底的に破壊され、住人も奴隷となります。一度、降伏したのに敵方に付いたりした場合も同様な待遇を受けますが、ローマが援軍を送れなかったというような仕方ない理由があれば賠償金だけで許されることもあります。このようにしてルール化することにより、ローマは不要な攻城戦をさけ領地を拡大することができました。
中世のヨーロッパでもこのようなルールは引き継がれたようですが、これに宗教対立が絡むと歯止めがきかなくなり徹底的な虐殺が起き、復讐の負の連鎖が起きた歴史もあります。

ベストアンサー以外の回答

1〜3件/3件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

sa3********さん

2019/7/1018:40:46

中世は城砦で町を覆って守っていたので、城砦は軍事基地であって城主?はその国(町)の支配者ということはないので、徹底抗戦して亡くなることもあるだろうし、生き延びれば捕虜・人質になることが多かったようです。攻めた方を非常に苦しめた戦いをして一目置かれることも、逆に残虐な方法で死刑になることもあったようです。

住人も逃げれる者は逃げただろうし、捕虜・人質になって身代金を払って自由の身になる者も、城砦の補修などの強制労働に駆り出される人もいたことでしょう。

tat********さん

2019/7/1018:25:38

時代や地域で違うので
一応には答えるのは難しいです。

まずヨーロッパで
「城」と呼べる建築物が登場するのは
実は10世紀以降辺りからですので

古代ヨーロッパには
「城」はなく
当然「城主」も存在しません。

ただ、軍事的な拠点や
交易上の要所・地方都市の場合
「城壁」と呼ばれる高い壁で
町や村・都市を囲い込んで
防衛する手法は確立していました。

外敵に対して
都市全体で籠城戦をするのが
当時の地方防衛の手法だったと考えられます。

この場合
都市や町・村の責任者
あるいはその地域の自治管理者
あるいはその代理者

場合によっては
領主や防衛軍の指揮官などが
その場所の軍事的なトップとなる場合が
多かったと考えれます。


また遠征や国境での戦争では
野営地や簡易の即席陣地(柵で囲んだ砦)が
軍隊の仮設基地として
戦場ごと、戦争ごとに
そうした陣地を建設・確保して
戦闘を行っていました。

これらに時代には戦闘する相手によって
その敗者の扱いは色々変化したと考えられます。

基本的には
言葉が通じる場合や
宗教・信仰などが同じ
もしくは類似している敵では
敗者でも自分たちの主義主張を
言い訳できる機会を与えられる場合もありました。
(もちろん、それが勝者に
認められるとは限りませんが・・・)

そうした吟味を経て戦争の目的や被害に応じて
敗者のトップには勝者が考える
相応の刑罰が与えられたと思います。

(死刑もあれば投獄や拷問など刑の種類は色々でしょうね)

一方、言葉が通じない民族や
敵対する異教徒などが相手の場合は
基本、敵のトップは
死刑となった場合が多かったと考えられます。

また、そういう敵の住民は
奴隷として扱われるようになるのが
当時の戦争の常識で

奴隷の売買と
敗者の土地の略奪・占領
それが勝者の戦費を補う財源にもなっていたと考えれます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

中世になると
ヨーロッパは
ローマ・カトリック教会が
絶対的な支配を強め

教会の権限で
神様の名のもとに
各地の支配権・自治権を
有する「国王」が承認され

ローマ・カトリック教会の権威の元での
国王による国家の運営制度が
ヨーロッパ全域に定着してゆきました。

この時代には山や谷・川と言った
自然界の境界線が国境線となる事が定着し

国家は自分たちが自国領土と考える
国境線を防衛する為に
国境や交通の要所に
国防目的の定住型の大規模
軍事拠点を建設するようになりました。

これがヨーロッパにおける「城」の始まりとされます。

(※よく勘違いされますが
「城」は軍事拠点の防衛建造物で
現代言う要塞や軍事基地にあたります。
国王や上級貴族が首都などに建てる
住居は”宮殿”と言い”城”の城主は基本的には
その防衛拠点の領主か軍事指揮官となります。
勿論、国王が直接国防の軍事指揮を行う場合もあり
その時は王が城に居住するパターンもあります)

この時代のヨーロッパ内での戦争は
基本、国境線の書き換え戦争であるので
城を守る側(自国領土の防衛)と
城を攻める側(他国領土を攻略する)とが
国境線をめぐって戦闘をする事になり

国境の防衛の要である
「城」が攻め落とされた場合
基本、城を防衛している側は
即時撤退するのが原則と考えられます。
(もちろん勝機があれば
攻守を変えての戦闘を継続する場合もありますが…)

このような戦闘では
目的が国土の拡張ですから
国防の要である「城」を奪えれば
それ以上に無理に
戦闘を継続する必要はなく

敗戦側の多くの戦闘員は
自由に敗走を許されていたようです。

通常は敗戦が濃厚になった時点で
「城主」は逃亡・撤退するか
負けを認めて開城する話し合いの場を
持つことを提示するとする場合が多かったとされます。
(休戦または和平協定)

しかし、中には
徹底抗戦をする城主もいたようですが
こうした城主は敗戦時には捕虜になります。

捕虜となった城主は
その身内や親戚などが
身代金を支払って解放される場合が
当時の常識だったとされます。

また、この身代金を目当てに
わざと城からの逃げ道・退路を断って
城主や城内の貴族・重要人物を捕虜にする事も
よくあったそうです。

中世末期には
この身代金方式が定着した
地域もあったようで

この為、城主は敗戦でも
城から慌てて逃げる事を
しなくなった地方もあったそうです。

(負けて逃げた場合
「身代金を払えない貧乏城主」と
噂されるのが嫌で
逃げずに見栄を張るのが
指揮官・城主の正当な
負けっぷりとされたのでしょうね)



/////////////////////////////////////

しかし、近世になると
宗教改革の影響で
「ローマ・カトリック派(旧教徒)」と
「非ローマ・カトリック派(新教徒)」と言う
対立戦争になると
様変わりしてゆきました。

同じキリスト教徒でした
神への考え方の差から
相手の宗派を互いに絶対敵視するようになり

対立した「旧教徒」と「新教徒」は
互いに完全絶滅を目的にする
戦争をする状態になったとされます。

また産業革命で
武器(大砲や銃)が大量生産される様になると
戦争は長距離からの砲撃・射撃が主となり
剣や槍・弓による「顔の見える距離」での戦闘が
少なくなった事で戦場では
指揮官も領主も戦死する確率が
中世より格段に上昇したので
負けたら逃げる方式が
再び主流となったようです。

ただ、運よく(?)捕虜になった場合は
改宗して身代金を払うか
改宗しないで死刑になるかを
選ばされる事もあったそうです。

len********さん

2019/7/1018:02:57

新しい領主に仕えたということでしょうね。
負けたほうの領主の配下の人間は、その主人とともに移動したか、見切ってほかの主人を探したか。
日本の戦国期だって同じでしょ。

この質問につけられたタグ

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる