ここから本文です

片桐且元は豊臣 徳川両方の家臣なのですか? そんな事アリなんですか?

織田信長に捨てられた里芋さん

2019/7/2510:52:06

片桐且元は豊臣 徳川両方の家臣なのですか?

そんな事アリなんですか?

閲覧数:
78
回答数:
5

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

2019/7/2515:52:47

結構アリですよ、日本史では。
たとえば江戸時代でも、徳川御三家と加賀前田家には、「付家老」という、幕府から派遣さてた形の大名級の家臣がいました。彼らは本来は独立した譜代大名になっていい家格でしたが、あえて御三家と前田家を補佐する(というか監視する)ために派遣された存在です。万石以上の禄を貰い城も持っていましたが、あくまで家老であり、藩政が幕府の意向に沿うように調整(監視)するのが任務でした。

片桐且元が「豊臣・徳川両方の家臣」だとしても、それは豊臣、徳川の両方から給料を貰っていた、ということではありません。ここは誤解なきよう。
封建制度における大名というのは、自分の領地を独占的に支配する王様のようなものです。その領地の支配権を主君(天下人)から保障してもらい(安堵、といいます)、そのかわりイザ戦争というときに自前の兵隊で駆けつける、というのが「御恩と奉公」の封建制度です。
天下が定まっていない戦国時代のような混乱期には、大勢力AとBに挟まれた小勢力が、AにもBにも臣下の礼をとっておく、なんてことはままあったわけです。あの真田なんかも、そんな立場だったでしょう。
「大名」とは、大企業(帝国重工)の部長ではなく中小企業(佃製作所)の社長のようなものだとイメージしたほうが正確です。中小企業がA社とB社両方の下請けをしていたとしても、おかしなことはありません。また、A社の部長がB社の部長も兼ねている、というのは一見ヘンですが、これもA社とB社が関連企業なら「出向」という形で、あり得ないことではありません。

では、片桐且元はどんな立場だったか。彼の治める領地は(もともとは戦の手柄で秀吉から貰ったものではありますが、現在は)且元の固有の領地です。これを「確かにオマエのものだと認めるぞ」という力を持っているのが天下人です。
「幕府」ができた瞬間に、全国の大名はすべて徳川の臣下となり、徳川から領地を安堵されている存在になりました。
ところが、「ウチはそのハナシとは関係ない、例外だ」と思っていた家があるわけです。それが大坂城の豊臣氏です。ウチは関白になる主家で、自動的に将軍の家来になる並の大名とは身分が違う、と思っていたらしい。
豊臣家の家老であった片桐且元は、引き続き大坂城で秀頼の家来の仕事をしていますが、彼も大名である以上は幕府の臣下であり、幕府の命令は聞かなければなりません。幕府の命令に逆らえば彼の領地は没収されるでしょう。徳川幕府には充分にその力があり、豊臣秀頼にはそれを守ってやる力は現実にはありません。こうした場合、片桐且元は誰の家臣かといえば、封建社会の常識からいえば、徳川幕府の家来というしかないでしょう。現実に且元の領地を安堵しているのは幕府だからです。
しかし、豊臣家とは因縁というか恩義というか、今までの流れがありますので、豊臣の家老の仕事を引き続きやってはいます。いわば、幕府から豊臣家に出向しているような立場と考えればいいでしょう。
ところが、その豊臣家は、まだ自分が天下人のつもりでいますから、且元は完全に豊臣の家来であると思っています。幕府の意向を豊臣に伝えただけで(それが出向社員としての仕事ですから)、「おまえは誰の家来じゃ、この裏切り者!」と罵られる羽目になります。冗談ではない、勘弁してくれ、というのが且元の本音でしょう。半沢直樹で脂汗流して精神不安定になってた滝藤憲一みたいな状況、アレが大坂の陣の直前の片桐且元だと思えばまず間違いないです。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

「片桐且元」の検索結果

検索結果をもっと見る

ベストアンサー以外の回答

1〜4件/4件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

ネオ麦茶さん

2019/7/2515:48:16

多様性の時代ですから副業ありの雇用契約だったんでしょう

usai21さん

2019/7/2512:37:15

武士が一人の主君にだけ仕えなければいけないというのは、江戸時代の観念です。

儒教である朱子学を推奨し、君臣関係とはこうだ、武士とはこうだという武士のイメージを作り上げたのは江戸幕府です。

それ以前の武士はそんなもの知ったことではないんです。
鎌倉時代の御内人は鎌倉将軍に仕える御家人としての顔と北条得宗家に仕える御内人の顔の両方を持っていました。

江戸時代の武士がそうだっからそれ以前の武士も同じだろうと思うのは危険な理解の仕方で、そういったバイアスに引っかかってしまうのを徳川史観と言います。

片桐且元は豊臣、徳川に双方から知行を受けて両属の関係でした。

双方から知行を受け、双方の利益代弁者になり得るからこそ、豊臣徳川間の交渉役にうってつけなのです。

少し時代を遡れば、織田、武田両家に挟まれた東濃の遠山氏は双方に両属状態でしたが、遠山氏が織田、武田両家の外交窓口になっていた例もあります。

2019/7/2511:40:18

大野治長の弟が人質がわりの家康の家来です。あり得ます。

プロフィール画像

カテゴリマスター

jun********さん

2019/7/2511:06:03

戦国時代は、主君を二人持つというのは、
しばしば起きるケースですが、
片桐且元の場合、徳川家の家臣になったのは、
豊臣家を出奔してからでしょう。
はじめから、両属という形だとしたら、
方広寺鐘銘事件の弁明の使者には、選ばれないはずです。
それに、且元は江戸に屋敷を持っておらず、
従って、幕府に人質を出した形跡がありません。

豊臣家臣で、徳川と両属的立場だったのは、
織田有楽斎ですね。
かれは、江戸にも屋敷があり、(今の東京有楽町周辺)、
家康からも所領を給付されているので、両属と言えます。

この質問につけられたタグ

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

別のキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる