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この漢文の日本語訳をお願いしたいです。帰り点や改行が無かったり、変なのはお許...

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ID非公開さん

2019/8/1010:31:20

この漢文の日本語訳をお願いしたいです。帰り点や改行が無かったり、変なのはお許しください。

顔蠋與齊王遊食必大牢出必乗車妻子衣服麗都辭
去曰玉生於山制則破焉非不寳貴也然而太璞不
完士生於鄙野推遷則禄焉非不尊遂也然而形神
不全蠋願得歸晚食以當肉安歩以當車無罪以當
貴清淨貞正以自娛嗟乎戰國之士未有如魯連顔
蠋之賢者也然而未聞道也晚食以當肉安歩以當
車是猶有意於肉與車也晚食自美安歩自適取於
[002-7a] 
美與適足矣何以當肉與車為哉雖然蠋可謂巧於
居貧者也未饑而食雖八珍猶草木也使草木如八
珍唯晚食為然蠋固巧矣然非我之久於貧不能知
蠋之巧也

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2019/8/1017:48:12

《顏蠋巧於安貧》東坡志林
顏蠋與齊王遊,食必太牢,出必乘車,妻子衣服麗都。蠋辭去,曰:「玉生於山。制則破焉。非不寶貴也,然而太璞不完。士生於鄙野。推選則祿焉。非不尊遂也、然而形神不全。蠋願得歸,晚食以當肉,安步以當車,無罪以當貴,清靜貞正以自娛。」嗟乎,戰國之士未有如魯連、顏蠋之賢者也,然而未聞道也。晚食以當肉,安步以當車,是猶有意於肉於車也。晚食自美,安步自適,取其美與適足矣,何以當肉與車為哉!雖然,蠋可謂巧於居貧者也。未飢而食,雖八珍猶草木也;使草木如八珍,惟晚食為然。蠋固巧矣。然非我之久於貧,不能知蠋之巧也。

顏蠋と齊王が交際するなら,食事は必ず太牢(牛豚羊の御馳走)を用意し,外出は必ず車に乘り,妻子の衣服は美しく雅びにしよう(と王は言った)。顔蠋は辞退し別れの言葉を言った「玉は山に生じます。成形すれば、この原型は壊れます。(成形したものが)貴重な寶玉でないわけではありませんが,そうなれば大きな原石の形は完うできません。士人は辺鄙な野に生じ,推挙され選ばれれば俸禄を受けます。尊い身分に達することがないわけではありませんが、そうなれば肉体も精神も全うできません。私、蠋はどうか歸らせて頂きたい。晚く(空腹になってから)食事をして肉の代わりに当て,ゆっくり歩いて車に乗る代りに当て,罪を犯さないことを貴い身分の代わりにし,身を静謐に貞正に保って自適したいと存じます。」 ああ,戰國時代の士人で、今まで魯連や顏蠋のような賢者はいなかった、今までこのような道を聞いたことはなかった。おそく食べて肉の代わりにし,ゆっくり歩いて車に乗る代わりとする。是れは、やはり肉や車に思いがあるということだ。遅く食べて自ら美味とし,ゆっくり歩いて悠々自適する,その美点を説いて満足するのであれば,どうして肉や車に代えるなどと言う必要があろうか!そうはいっても,顔蠋は巧みに清貧を貫いた者と言うことができる。今までに飢えて飢えて食べる経験がなければ,八珍(八つの珍味)と言っても草木のようなものである;草木を用い八珍のようにするのなら,ただ晚く飢えてから食べれば、そのようになる。顔蠋は固より巧みであった。しかし我は久しく貧乏であるのではなく(飢えに苦しむほどではないので)顔蠋の巧みさを知ることはできない。

麗都:美麗優雅

  • 2019/8/1020:08:54

    なるほど~含蓄のある解釈になりますね。

    とはいえ、蘇東坡といえばトンボーロー

    くいしんぼで有名な方なので、お前が言うかと突っ込みたいなあ。

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plm********さん

2019/8/1018:25:39

oha********さんの回答を参考にさせていただきました。
東坡志林の文章だったんですね。
後半部分、oha********さんとは違う解釈をしました。
訳してみます。


ああ!戰國の士には魯連顔蠋のような賢者は他にはいない。
しかし、彼らもまた本当の道を知らないのだ。
「晚食以て肉に當て安歩以て車に當つ。」
これは、まだ気持ちが肉や車にある。
腹が減って食べれば(何であれ)それ自体美味い。
(肉のことをあれこれいう必要はない)
ゆったり歩くのはそれ自体楽しい。
(車のことを考える必要はない)
それらの美味さと楽しさを取れば足りる。
肉や車の代わりにしてどうするというのか。
とは言っても、蠋は貧乏暮らしが上手いと言うべきだろう。
腹が減っていないのに食事をすれば、
どんなご馳走も草木を齧るようなもの。
草木をご馳走と感じさせるのは、ただ空腹だけだ。
なるほど、(それを知っている)蠋は貧乏暮らしが上手だ。
しかし、私のように長く貧乏暮らしをしながら、
蠋の巧=テクニックを必要としないのとは違う。

つまり、蘇軾は貧乏暮らしそのものを楽しんでおり、
「私は顔蠋のようにテクニックで気持ちを胡麻化して
貧乏暮らしに適応しているのではない。
私のように、貧乏暮らしそのものを楽しめてこそ
本当に道を知っているというものだ。」
と言いたいのだろうと思います。
ただ、もろにそういうと傲慢で
鼻持ちならない感じになるので、
最後の方は婉曲表現になっているのだと思います。

「非我之久於貧不能知蠋之巧也 」
(我の貧に久しくして
蠋の巧を知る能わざるには非ざるなり。 )
これを直訳すると、
「(顔蠋のやり方は)私が長い間貧乏をしていて
蠋のようなテクニックを
知ることができないのとは違います。」
となります。
「知る能わざる」なんて額面通り受け取れば、
自分が劣っているから知ることができないと
言っているようですが、
自分は、そもそもそんなテクニックなんか
必要ない高い境涯に居るから知ることができない
と言っているんじゃないかと思うのです。
だとすると蘇軾もかなりの自信家です。
しかし蘇軾は禅の修行をして悟りを開いた人ですから、
自分は真の道を知っているという自負があったとしても
おかしくはありません。

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