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家康は戦場で敵に何度も肉薄されて死にかけていますが、なぜ大将がそんな危険な目...

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ID非公開さん

2019/8/1714:51:41

家康は戦場で敵に何度も肉薄されて死にかけていますが、なぜ大将がそんな危険な目に合うのでしょうか?

家康ほどの武将の回りをかためる兵といえば相当強そうなイメージがありますが、
そんなに強くも無いのでしょうか?

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ぷっくまさん

2019/8/1900:49:59

まあ、家康が命の危険を感じたのは3回で、それを、神君三大危難とも呼ばれた。

神君三大危難と呼ばれたのは、三河一向一揆、三方ヶ原の戦い、そして伊賀越えなんだよね。

まあ、伊賀越えは合戦での話ではないし、三方ヶ原の戦いはよく知られている。これは、信玄の策略に乗せられて、徳川軍が大敗を喫したというものだから、相手が悪かった。

で、ドラマや小説などであまり取り上げられないのが、永禄6年(1563)に起きた三河一向一揆。これは家康の三河統一の最中に起きたもので、最悪だったのが、自分を守るはずの家臣が離反し、一揆に加勢したんだな。

このとき離反した家臣は、次のとおり
本多正信・正重兄弟
渡辺守綱
蜂屋貞次
夏目吉信
内藤清長
加藤教明
酒井忠尚
石川康正

で、本多正信の離反はよく知られているが、渡辺守綱や蜂屋貞次は後に徳川十六神将と呼ばれるまで功績を挙げた。

夏目吉信は、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討ち死にした家臣。

石川康正は重臣の石川家成(石川というと石川数正が出てくるが、家成の方が格上とされていた)の兄である。で、余談になるが加藤教明は後に羽柴秀吉に仕え、子の嘉明は秀吉のもとで出世をした。これだけ有能な家臣たちが家康から離反し、歯向かってきたわけだからただ事ではなかった。で、一揆衆に対して戦うことで、仏罰を恐れた家臣たちも多くいて、士気は低下。一時期、一揆衆が岡崎城の近くまで攻め込んできたんだな。

まあ、辛くも家康は一揆を鎮圧し、離反した家臣たちも改宗をするなど帰参が認められた。

家康にしてみれば、家臣を敵に回したばかりに、痛い思いをしたわけだけど、逆にいえば、敵に回してはならないほど、家臣たちは強かったってことなんだ。

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質問した人からのコメント

2019/8/24 08:44:00

皆様ありがとうございました。
家康の人生はとても面白いですね。

ベストアンサー以外の回答

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大将を殺せば勝ちだし手柄も抜群だ

みんな狙うわな

sas********さん

2019/8/1721:28:56

本陣が脅かされれば仕方のない事です。接戦になれば本陣から部隊を繰り出して本陣が手薄になるのは仕方がない事です。
はい大将が出張る事は軍の指揮的には大事です。特に三方ヶ原の様に負けるとわかっていても戦って織田との同盟を大事にする姿勢もありました。

hk8********さん

2019/8/1717:06:42

強いが相手も相当強い。
弱い代表が尾張、強い代表が武田。

尾張兵5人で武田兵1人
三河兵3人で武田兵1人
という比較があります。

家康が一番大逃げしたのが、三方ヶ原。
相手が死兵となって挑んでくれば危険は
さらに高まります。

fxc********さん

2019/8/1716:15:12

家康のみならず、戦国武将って常に狙われている。敵将の首をとることが、勝敗の決着だから、戦闘があれば大将は必ず危険な目にあいます。
家康が何度も危険な目にあっているということは、それだけ戦場に出た機会が多かったということでしょう。

rac********さん

2019/8/1715:12:19

家康配下の三河武士は相当強かったらしい。
そこが油断の元となったとも思える。
また家康自身も、安全な後方より
前線で指揮したいと思っていたのでしょう。
なにしろ周りは最強の三河武士ですから。

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