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邪馬台国はどこにあったと思いますか?理由も教えてください 僕は南九州のどこ...

tat********さん

2019/8/1802:23:54

邪馬台国はどこにあったと思いますか?理由も教えてください

僕は南九州のどこかだと思います

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2019/8/1923:03:57

南九州ですか?
まぁ本来は邪馬壹国(邪馬壱国 ヤマイコク)です。
魏志倭人伝には邪馬壹国と記述されていたのです。
440年代に成立した後漢書倭国伝には邪馬臺国と出てきますが、倭人伝が成立した280年代よりも15、60年も後の時代でその頃にはヤマト王権が宋に使節を派遣し有名な倭の五王として歴史に記述されています。(宋書など)
したがってこの頃から壹は臺の誤記かもしれない?と言う疑念が出てきたのでしょう。
つまり、古くは倭国の中心国はヤマイ国と伝わっていたものが実は現在使節を送って来ているヤマト国だったのではないか?と言う解釈です。
これは、実際に
後漢書(百衲本)の、「大倭王は邪馬臺国に居す。」という記述に、「今名を案ずるに、邪摩惟音の訛なり。」という唐の李賢注が続くからです。訛は言葉が誤って変化したことを表す文字です。より古い邪摩惟(ヤマユイ)音の伝承があり、それが変化して今名(唐代)のヤマタイ(邪馬臺、邪靡堆)になったのだとされ、そして、後漢書に百数十年先立つ魏志が邪馬壹国と表記している事実があるわけです。
そうすると、ではその邪馬壹国=ヤマイ国とはどこなのか?が邪馬台国論争に深く関わってきます。
九州説では
それは北部九州の八女(ヤメ)地方の事です。ヤメは
ヤマイが訛った地名でしょう。 そしてヤマイとは山井か山居と言うような意味だったのでしょう。
邪馬壹国の場合は畿内説はどうか?
畿内説は最初からあり得ません。
ヤマトはヤマイじゃないですからね。
そうすると、ヤマト王権は邪馬壹国とは別物と言う事になります。

つまり、本来、倭人伝では邪馬壹(ヤマイ)国=倭国の中心だった。
しかし、後に畿内のヤマト王権が東海北陸中部から北部九州壱岐対馬まで統一して中国王朝側によく知られるようになった為、その中心のヤマト地方と倭人伝の邪馬壹(ヤマイ)が混同されるようになった。しかし、音が食い違う。
そのため、(音としては実はトと読むには非常に苦しいが漢字としては)よく似た臺(台)の誤写ではないか?と疑って邪馬臺国(邪馬台国)とした。
これなら本来タイと言う読みなのでトと読むのは少々苦しいが、倭人の発音の聞き取りなのだから、魏使の多少の聞き取りミスがあったのかもしれない? と考えたのでしょう。
しかし、一方で李賢のように古くはヤマユイと言う音だった、と言う伝承もあるが、、と言う事なのです。
現代の中国側の研究では倭人伝では邪馬壹国だった!と言う事で一致しています。
結局邪馬臺(台)国、または邪馬壹(壱)国は北部九州で間違いありません。
そして倭人伝には、邪馬台国連合の東の海の先千里にも倭種の国がある、と書かれていますので、北部九州から見て瀬戸内地方や四国地方は同じ倭種だけど、邪馬台国連合に属しない諸国、つまり、中国四国以東はこの邪馬台国連合には含まれていない北部九州限定の地方政権と言う事になります。
台与の晋への使節派遣が266年、 倭国が半島に進出して行ったのが360年代以降ですので、その間に北部九州まで含む統一政権が成立したと言う事になります。おそらくは34、50年代です。
これが全国的(と言っても関東以北、九州南部は含まない)ヤマト王権の成立時期です。

逆に畿内説が正しいならそれは邪馬臺国でなければならず、そして、卑弥呼が即位した180年代にはすでに東海北陸地方から北部九州壱岐対馬までが邪馬台国連合の領域だった事になります。
なので、180年ごろが全国統一ヤマト王権の成立年代になります。
その違いは約16、70年くらいです。

しかし、仮に邪馬臺国(ヤマト)であっても、八女市の南隣は旧山門郡(現みやま市)ですので、北部九州説では何ら問題がありません。

この八女市の北隣が久留米市で卑弥呼の墓とも言われる祇園山古墳があります。
祇園山古墳は高速道で一部が削り取られてその断面を見る事ができます。
グーグルマップの写真で断面を確認できますが、この一部の断面だけでも7、80mはあります。
全体の断面では、100mは超えるでしょう。
古墳そのものは一辺が23mくらいの方墳ですが、
魏使はこの基盤全体を含めて目撃したのです。
倭人伝は数値に誇張が多々見られますので、この直径が100m前後は径百余歩(の150m) と言う記述にピッタリです。
逆に箸墓古墳は一辺280m(2百余歩)以上なので、誇張して3、4百余歩と記述されてもおかしくないでしょう。
また、被葬者は石棺に埋葬され、方墳中央部に直葬されています。
これも有棺無槨(棺有って槨無し)の倭人伝の記述にピッタリです。
(箸墓古墳だと有棺有郭)
さらに、祇園山古墳にはその基盤部に66体もの殉葬と見られる埋葬者があります。
中には差し違い葬と言う明らかに殉葬の埋葬者もいます。
この66体全てが殉葬ではなくても、その内の数十体は殉葬とすれば、この数十体を誇張して奴婢百余人を殉葬した、と倭人伝に記述されたと考えるとピッタリ一致します。
日本全国でこれほど倭人伝の卑弥呼の墓の記述にピッタリ合う古墳はありません。
箸墓古墳などはまったく論外です。

結局畿内説で唯一根拠らしきものは歴博の土器付着スス焦げの炭素年代のみです 。
それによれば、箸墓古墳の周濠から出土した布留0、1式土器に付着していたスス焦げの炭素年代が24、60年代を示した、だから箸墓古墳の築造年代は24、60年代となり、卑弥呼の死亡年の247、8年にピッタリ一致する、即ち、箸墓古墳が卑弥呼の墓で間違いない!と言うものです。
しかし、その歴博の土器付着スス焦げの炭素年代は国際標準較正曲線ではなく、光谷拓実氏が開発したと言う日本産樹木の年輪年代法に基づく較正曲線によるものです。
つまり、歴博炭素年代=光谷拓実氏の年輪年代≠国際標準年輪年代です。
所謂土器編年も畿内説ではこの歴博の炭素年代に基づくものなので、結局光谷拓実氏の年輪年代法を当てはめたものに過ぎません。(畿内流土器編年)
結局、畿内説の根拠らしきものはこの光谷拓実氏の年輪年代法(≠国際標準年輪年代)の一本槍でしかない。

しかし、この光谷拓実氏の年輪年代法によれば、604年頃創建、670年頃全焼、その後701〜10年頃再建された法隆寺の五重塔の芯柱の伐採年が594年になってしまう。他にも14事例で記録と伐採年が百年古く食い違ってしまう。
つまり、この年輪年代法自体が百年古く狂っているのです。
したがって、歴博炭素年代も畿内説の土器編年も全て百年古く狂っているのです。
事実、歴博の炭素年代=光谷拓実氏の年輪年代=畿内説の土器編年、(これらは全て同一の根拠=指標=光谷拓実氏の年輪年代法の繰り返し)以外のほぼ全ての指標が箸墓古墳の築造年代を4世紀前半と示しています。

いくつかの根拠=指標を示しましょう。

1、箸墓古墳より少し古いホケノ山古墳から楽浪鏡と言われる銅鏡と同じ様式の銅鏡が出土した。
この楽浪鏡は楽浪最終期土器と共伴して出土する鏡でそれ以前の土器とは共伴しない。
楽浪郡の滅亡は313年なので、楽浪最終期土器は290年代以降くらいの土器である。
即ち、ホケノ山古墳の築造年代はその後、つまり従来説の32、30年代が正しい。
すると箸墓古墳はその後、330〜50年代となり、やはり従来説が正しい。
他にもホケノ山古墳の原型ではないかと思われる徳島の萩原墳丘墓(ホケノ山より古い)からは楽浪郡の墓出土の楽浪鏡と傷の形まで一致する楽浪鏡が
出土する。
この場合、楽浪郡墓の人物は290年代〜313年代に死亡した事は確実だ。
つまり、萩原墳丘墓の人物もその同時代に死亡した、と考えて間違いない。
即ちその後のホケノ山古墳は32、30年代築造となる。
これも動かぬ証拠です。

2、箸墓古墳ははじめて出現した巨大古墳であり、従来のホケノ山古墳などの中小古墳群とは全く一線を画する。
これははじめての巨大権力者の出現をあらわしている。
記紀によれば、ハツクニシラススメラミコトたる崇神天皇がそのはじめての巨大権力者に相当し、その活動期は4世紀前半である事は定説である。

3、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の碑文によれば、ヲワケの臣が471年に造らせたとあるが、その7代前がオホヒコとある。
この オホヒコとは崇神の伯父のオホヒコノミコトの事と思われる。
すると、崇神はヲワケの臣の6代前であり、世代にして14〜60年前に相当する。
即ち31〜30年代が崇神の活動期であり、やはり、4世紀前半で一致する。

4、箸墓古墳の周濠の底の落ち葉を含んだ固く締まった土層の中層から木製輪鎧が出土した。
302年銘のある長沙の墓から出土した騎馬俑400余体中、鎧は僅かに3体のみで、しかも片鎧。
これは大将クラスの物で威信材でもあったと思われる。 だから、高価な金属製が多かった為に鎧と言う字は金偏なのである。
しかし後世に、硬製鞍と両鎧がワンセットとして発明された。これにより馬上の安定感がズッと増し、騎馬兵の有用性が大幅に向上して、騎馬戦術の大変革をもたらしたのである。
その為、全騎馬兵に鎧が必需品となり、(400体なら800もの鎧が必要)安価で大量入手しやすい木製輪鎧が普及した。
それは4世紀中頃以降の事で、現に、357年銘のある高句麗の墓の壁絵でも鎧は描かれていない。
また百済墓で鎧が出現するのも4世紀中頃以降である。
従って、箸墓古墳の周濠の底の土層が築造後積もったものだとしても、早くて4世紀後半であって、そうすると築造年代は4世紀前半が合理的。

これらの指標はどれも炭素年代とは無関係な上に、お互いも無関係で互いに完全に独立した指標です。

それらが全て箸墓古墳の築造年代として4世紀前半を示している。

対して、畿内説の根拠は唯一歴博のスス焦げ炭素年代=光谷拓実氏の年輪年代法≠国際標準年輪年代,,一本槍の繰り返しのみ。
( それだと、700年代再建の法隆寺の五重塔の芯柱の伐採年が594年になってしまう。等々)
つまり、畿内説には根拠が存在しないのです。

  • 2019/8/2011:27:25

    knnさんの主張もなかなか鋭いと思うのですが、、、伊都国が首都だった、卑弥呼の墓は伊都国の平原1号墳だ、だから邪馬台国は無かった、と言う結論には同意しかねます。

    knnさんの主張には祇園山古墳の事が全く出てきません。
    この祇園山古墳こそ卑弥呼の時代と被る同時代の北部九州最大級の古墳です。
    平原墳丘墓はずっと規模が小さい。
    ただ、埋葬者が女性とハッキリしている事、八咫の鏡らしき破鏡があり、破鏡は呪術に関与して、その呪術者を封じる意味がある事から、これは、卑弥呼の次代の台与の墓だと考えて良い
    と思われます。
    いやいや、祇園山古墳が台与の墓であって、平原墳丘墓が卑弥呼の墓だ!と言う意見もあるでしょうが、倭人伝の記述では、径百余歩(約145mくらい)である事、奴婢百余人の殉死があった事から、久留米市の祇園山古墳が卑弥呼の墓で間違いないでしょう。
    このあたりは後々の磐井に連なる北部九州の覇者の本拠地ですしね。

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c6c********さん

2019/8/1923:12:43

徳島県だと思います。
粟国の大宣都姫(おおげつ姫)が卑弥呼だと思います。
彼女は日蝕の日、須佐之男命に暗殺されました。

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ID非公開さん

2019/8/1815:26:19

実質的には蘇我馬子主導で620年に編纂された天皇記や国記は乙巳の変(645年)の時に焼かれ紛失、上宮記だけは鎌倉時代まではまだ残ってました。古事記や日本書紀は天皇記や国記に変わる日本の正史として、藤原不比等の管理下で新たに書き直された代物。そこには北陸・尾張や山陰地方を政治的支持基盤にしていた蘇我氏や物部氏と、先祖が大分県出身の豪族の子孫・中臣鎌足との激しい権力争いが背景にありました。記紀の神話によると、まるで九州(高天原)の神々が日本に文明をもたらしたかのような論調、ヤマタノオロチや因幡の白兎で侵略者・高志国を極悪人扱い、日向出身の神武天皇が初代天皇と偽り、第26代継体天皇は越前の王だったが大伴金村らから招聘されたと言い逃れ。これはその時代はまだ上宮記に継体天皇以降の記録が残っており、その部分だけはウソの系譜が書けなかった模様。
海彦・山彦物語にしても蘇我氏への当てつけで作られた感じ。長男の海彦を越前、次男を出雲、三男の山彦を大和、神を九州東部になぞらえた勢力争いの喩え話のように思われ。考古学的見地からは越前和紙や漢文、鉄器技術、行政改革、馬、仏教などを導入し、畿内を近代化させた継体天皇と蘇我氏の功績が過少評価されがち。食料自給率の観点からは、福井平野にあった140k㎡の淡水湖跡地がAD1世紀に大部分干上がり、鉄製農具なしで短期間に穀倉地帯へ発展したと考えられます。
弥生時代後期の人口を、検出された遺跡数と8世紀の人口推定を基礎に割り出すのは問題あり。古い遺跡ほど失われやすく見つかりにくい傾向にあり、8世紀の人口推定には役所の管轄外や公民以外の人口が含まれてません。

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ail********さん

2019/8/1807:49:30

消去法で九州。
近畿は有り得ない。
箸墓の木製鐙が4世紀以降なら、土器基準の年代推定が100年ずれるので、祇園山古墳が、卑弥呼、イヨの墓の可能性が非常に高くなります。

knn********さん

2019/8/1807:02:51

既存の九州説や畿内説は論理的・合理的でないと思っています。魏志倭人伝の記事を満足させて邪馬台国を確定することは不可能だと断言できます。
邪馬台国を推定するには妄想を働かせるしかありません。邪馬台国論争が決着していないのは、既存の九州説・畿内説などに妄想が含まれているからです。(「妄想」は「想像・推測・歴史ロマン」でも構いません)

本題に入る前の倭人伝の基礎知識です。
(1)帯方郡から不弥国までの道程は里数(距離)で記されています。
(2)次の投馬国・邪馬台国へは日数で記されています。
(3)この日数は倭人から聞いた話です。
(4)従って、「女王の都する所」も倭人から聞いた話です。
(5)邪馬壱国(邪馬台国)の国名は1回しか記されていません。
(6)ところが、伊都国は2回で重要な役割も記されています。
(7)卑弥呼は鬼道(きどう)を事とし衆を惑わしていた。
(8)往来の記事に登場する難升米・張政・壱与などは実在します。

さて、
魏志倭人伝には、邪馬壱国が1回、女王国が5回記されています。5回の女王国は女王の都とする場合と女王の統治範囲とする場合とが混在しています。また、女王国=邪馬壱国とは記されていません。
女王国は伊都国で、邪馬台国や邪馬壱国が存在する必然性は無いと考えています。つまり邪馬台国はなかった。

それでは、歴史ロマンを楽しみましょう。
朝鮮半島では魏が公孫氏を滅ぼし帯方郡まで占領し更に韓への支配を強めていたのですから、倭人には魏の軍事力に対する脅威があったのです。倭人には女王国の場所を秘密にする理由があるのです。つまり、倭人達(難升米等)は女王国の場所を秘密にした。
倭人達(難升米等)は女王国を海の彼方にすることで魏の使者を欺いているのです。其の余の傍国や国々の戸数二万余・五万余・七万余は倭国が大国で大率(大きな軍隊)が存在していると思わせているのです。更に、魏が敵対する呉の東に女王国が在ると思わせているのです。魏の使者も倭人伝の編者陳寿もこの倭人の策略に気づいていないのです。
倭人は孫子の兵法「詭道(きどう)」を実践しているのです。

伊都国までの道程記事は『魏略』にも書かれていて魏の使者の「見分」ですが、奴国~邪馬壱国~其の余の傍国の記述は倭人からの「見聞」で『魏略』には書かれていません。奴国・不弥国・投馬国・邪馬壱国の記述は倭人伝から削除できると考えます。
伊都国の記事として倭人伝には「世有王皆統属女王国」『魏略』には「其国王皆属王女也」と記されています。其の国の王が女王に属しているのなら其の国つまり伊都国に王と女王とが居て女王の宮室があってよいのです。『魏略』には伊都国の戸数は「万余戸」と記されています。女王の居処とする場所は伊都国しかありません。女王国は伊都国です。
(自由に推理する歴史ロマンは実に楽しい)

邪馬壱国「女王之所都」、卑弥呼の墓「径百余歩」「殉葬者奴婢百余人」などは倭人達の作り話です。

倭人伝によると、伊都国は女王国の北に在るのだから女王国=伊都国はあり得ないとの反論もあるでしょうが、その反論は伊都国が女王国の北に在ることを認めることですから畿内説は破綻します。倭人伝の記事を満足させて邪馬台国や女王国を確定することは不可能なのです。
倭人伝には、女王に届ける文書や品物を伊都国で臨検して間違いのないようにすると記されています。荷物を確認するためには荷物の封泥(封印)を壊すのですから、伊都国と女王国が遠く離れていたら(畿内大和の場合)封泥を壊す場所は伊都国では無い筈ずです。女王国=伊都国なら問題ありません。

倭人伝によると、魏の使者を欺くために伊都国から奴国・不弥国を経て水行二十日・水行十日・陸行一月で邪馬台国に至ると記されています。つまり邪馬台国へは片道2ヶ月往復4ヶ月以上になります。
末盧国の「草木茂盛し行くに前人を見ず」の記事から郡使往来の時期は夏だったとされています。邪馬台国へは往復4ヶ月以上ですから戻りの時期は冬になります。玄界灘の冬の天候は曇天の日が多く不安定です。
魏の使者(郡使)が邪馬台国まで往復すると玄界灘の渡海は天候の不安定な冬になりますので、郡使は邪馬台国へは行かずに伊都国で倭国の饗応を受けていたのです。

倭人伝の往来記事によると「倭国に詣る」「張政は檄文を以て壱与に告諭した」と記されている。「邪馬台国に詣る」とは書かれていない。
卑弥呼の記事に「男弟有りて国の統治を助ける」と記されている。
伊都国の記事に「郡使が往来するとき常に駐まる所」と記される。
これらの記事から郡使は邪馬台国には行っていない。伊都国に壱与が居て、男弟は倭国を統治する伊都国王で、郡使の饗応は伊都国で開かれたと推察できます。

http://www.city.itoshima.lg.jp/s033/010/020/010/110/010/hirabaru-is...
↑福岡県糸島市ホームページ<2009年11月1日>に平原遺跡の1号墓について「この墓は弥生時代終末期(約1800年前)に造られたものです」と書かれています。
2009年の1800年前は西暦209年ですが、墓が作られた「約1800年前」の許容差を±50年とすると墓が作られたのは西暦159年~259年になります。魏志倭人伝によると卑弥呼の死は西暦247年頃です。
平原1号墓に葬られた人物は女性と考えられていますので女王卑弥呼の墓かもしれません。伊都国は糸島市あたりに在ったとされています。
↑これには異論もあるでしょうが、
先ず「約1800年前」については、平原1号墓から出土した鏡40面のうち中国製は前漢鏡1枚と後漢鏡1枚で中国製は重要ではありません。平原1号墓から出土した日本製の大型内行花文鏡(国宝)は非常に貴重なもので八咫鏡と解されていて伊勢神宮の八咫鏡と同型と解される。日本製の八咫鏡は3世紀以降に生産されて埋葬されたと解される。
鏡の問題は面倒です。
大正時代は、古墳から漢鏡が出ると古墳の築造を鏡の年代と同じにしました。その後、梅原末治は鏡の伝世に気づいた。中国から輸入した鏡は貴重品だから100年・200年にもわたって代々その家に伝え子孫によって埋葬される。また、新鋳の鏡が新品で輸入されるとは限りません。中国や朝鮮で伝世したものが日本に移動する場合もあります。
(弥生時代の遺跡の年代は約1800年前・約1900年前などと100年毎に区切って考えますので、許容差は±50年になります)

<女王国のその後>
日本書紀で伊都国王の末裔と思われるのは筑紫国造磐井だけです。
3世紀には豪族が支配する文化圏が九州北部・吉備・出雲・畿内に併存していて、孫子の兵法「詭道」を実践していた女王国(伊都国)は畿内の大和王権のように好戦的ではなく、4世紀には好戦的な大和王権が蝦夷を征討し九州にも支配地域を拡大して熊襲を征討し筑紫にも国造を置き九州を統属したと推察します。

金印「漢委奴国王」は委奴国=伊都国とする説で良しとします。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q121850476...
↑知恵袋のknn*の回答(BA)です。

※女王国は伊都国で、邪馬台国はなかったと考えますので、邪馬台国の位置を論じる既存の邪馬台国九州説とは別物です。
※『魏略』に書かれていない「見聞」記事を倭人伝から削除(史料批判)することで、「南」を「東」に改竄する必要も無いし「水行二十日水行十日陸行一月」も「其余傍国」も関係ありませんのでスッキリします。

既存の九州説↓
★安本美典★松本清張★榎一雄★橋本増吉★井上光貞★新井白石★他
既存の畿内説↓
◆寺沢薫◆白石太一郎◆都出比呂志◆大塚初重◆岸本直文◆渡邉義浩

「偉い先生がこういったから正しい」と思う(妄信する)のではなく、
先ずは疑問を持つことです。

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