ここから本文です

武田信玄は山梨では信玄公と言われ、英雄視され、尊敬されていますが、 江戸時代...

siny777さん

2019/10/1421:49:18

武田信玄は山梨では信玄公と言われ、英雄視され、尊敬されていますが、
江戸時代の藩主たちは全く意識されてないのでしょうか。

江戸時代の甲斐では、武田家は開祖徳川家康の敵だったわけですが、崇拝を禁じられたりはしていなかったのでしょうか。

閲覧数:
363
回答数:
4
お礼:
100枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

ぷっくまさん

2019/10/1510:14:31

「江戸時代の甲斐では、武田家は開祖徳川家康の敵だったわけですが、崇拝を禁じられたりはしていなかったのでしょうか。」

だって、家康自身が信玄に私淑していたからね。(私淑とは、尊敬する人に直接には教えが受けられないが、その人を模範として慕い、学ぶこと)

どれくらい武田家や信玄を尊敬していたのか?というと、関ヶ原の戦いの後、自身の五男の信吉を武田信吉と名乗らせ、武田家の名跡を復活させている。で、信吉の母親は武田家の一族の穴山信君(梅雪)の養女で、家康が側室に迎え、生まれたのが信吉だったんだ。

で、信吉は慶長7年(1602)に常陸国水戸に封ぜれ、旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興したんだな。しかし、信吉は生来、病弱でその翌年には病死してしまい。武田氏は再び断絶したんだな。このように家康は甲斐武田家の滅亡を惜しんでいたから、信吉に名跡を復活させたといえる。

で、私淑するきっかけになったのが、三方ヶ原の戦いでの敗北。信玄の挑発に誘い出されて、徹底的にやられてしまった家康の人生最大の敗北だね。

実は三方ヶ原の戦いまで、家康はどこか信玄を舐めていた節があるんだ。

ちょっと待て!武田家は上杉家と並んで戦国時代最強の大名じゃないか?舐めていたなんて、ありえんだろう!ってなるだろうが、この頃の家康は増長してしまっていたから、信玄の挑発に乗ってしまっていたんだと考えられる。

で、家康と信玄が敵対関係になったきっかけは、永禄11年(1568)に行われた駿河侵攻。このとき、信玄と家康は、今川領の大井川を境に切り取り次第という密約を結んだんだ。
永禄11年12月6日に、信玄は今川領の侵攻を開始、その7日後に家康も遠江に侵攻を開始したんだ。家康は同月27日には掛川城を包囲するまでに至ったんだ。

ところが、年が明けた永禄12年1月に突然、武田家臣の秋山信友ら下伊那衆が遠江北部に進軍してきたんだ。これに対して、家康は信玄に抗議し、両者の間で関係修復を試みられた。

この頃の信玄はちょっとした窮地に陥っていたんだ。今川氏真の援軍に北条軍が駿河へと進軍してきて、信玄は駿府で孤立化していたんだ。一方の家康は今川氏真が逃げ込んだ掛川城の包囲をしていたが、掛川城の抵抗が激しく、包囲戦が半年に及ぼうとしていて、長期戦となってきたんだ。家康は下伊那衆らの遠江北部への進軍から、信玄に対して不信感が拭えず、掛川城の一日も早い開城の必要性に迫られていたんだ。

ここで、家康は掛川城の開城と不信感を持つ信玄への対抗策を外交戦で切り抜けたんだ。北条氏康の仲介で、掛川城に立て篭もる今川氏真と和睦、開城させたんだけど、この内容が北条家を巻き込む内容だったんだな。
一つ目には氏真と城兵の助命。
二つ目に、氏真の身柄は北条家で預かる。
三つ目に、徳川家と北条家で駿河を武田から取り戻したときには、駿河の太守(大名)として、氏真を復活させる。
この盟約を結ぶとともに、家康は信玄に手切を宣言。これによって徳川と武田の敵対関係は始まる。

で、単に徳川と武田が手切れになっただけでなく、信玄を激怒させる要因があったんだ。信玄にとって氏真は今川家復興の大義名分となる人物であるため、生きていては困る人間だったんだ。さらに、氏真の身柄を北条家で預かり、徳川と北条が今川家復興の盟約を結んだことによって、武田は駿河で東から北条、西から徳川に挟み撃ちにされる格好になってしまったんだ。

さらに家康は上杉謙信と誼を通じ、信長に信玄との同盟を破棄させて、信長に謙信との同盟を結ばさせるので、同盟を結んで欲しいと申し出るんだな。つまり、武田を四方で包囲する策略を図ったんだ。これが信玄に知られるところとなり、信玄をさらに激怒させた。この上杉への策略は、信玄が信長に抗議したことで、家康は自重せざるを得なくなったんだけど、信玄にしてみれば、若輩者で格下の家康にいいように手玉に取られた格好になってしまったんだ。

逆に家康にしてみれば、結局、謙信との同盟は実現できず、駿河も信玄の手に落ちたが、信玄を良いように手玉に取ることができたわけで、家康にとって自信につながっていったと考えられる。

さらに、その翌年の元亀元年(1570)の姉川の戦いで、当初、浅井・朝倉連合軍に織田・徳川連合軍は開戦後、劣勢を強いられたが、家康は家臣の榊原康政に、浅井・朝倉連合軍の陣形が縦に伸びきっていたところを側面から攻撃するように命じ、浅井・朝倉連合軍の陣形を崩させ、敗走させることに成功したんだ。これによって、にわかに家康は野戦が得意という評判が立ち、家康の過分な自信に繋がっていったと考えられる。

ところが、家康は三方ヶ原の戦いでは、信玄に挑発され、野戦に誘い出される形で敗北した。で、武田軍が当時最強であったのは、集団戦が徹底されていたんだ。というのは、この当時の戦は、子どものサッカーのようなものだったんだ。子どものサッカーはボールがある方向へワーと行き、ボールが動けばまたワーと行くでしょう。当時の戦の多くが、敵がいるところに味方の兵が集中し、敵が動けば、味方の兵が動くという戦い方で、戦術も攻守の役割もへったくれもなく、ほとんど統制が取れていなかったんだ。

ところが、武田軍はそうではなかった。きちんと統制が取られている集団戦が行われていたんだ。これよりも300年ほど後、勝海舟が西洋の戦術を学んだとき、信玄の戦術と同じではないかと評価したんだ。それほど、信玄の統制が取れていた集団戦法は、先進的だった。

そのため、単に兵力差だけではなく、家康への巧みな挑発も、人の心理を突いたもので、さらに統制の取れた作戦や戦術を用いることができる軍団を作りあげた信玄に、家康は畏怖せざるを得なかったと考えられる。家康にしてみれば、今後も続く信玄との戦いに生き残るためには、信玄に学ぶしかない、だから家康は信玄を尊敬し、私淑したんだと考えられる。

  • 質問者

    siny777さん

    2019/10/1512:31:02

    おお、詳細な回答ありがとうございます!熟読させていただきました!その最強武田が勝頼を奢らせてしまったんですかね〜

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

ベストアンサー以外の回答

1〜3件/3件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

kop********さん

2019/10/1422:44:34

甲府の最後の藩主柳沢吉保は武田の同族家臣青木氏出身で祖父は長篠の戦いの生き残りでした。

彼が甲府を整備し武田信仰を復活させました。

彼のあと甲府は幕府支配となり甲府勤番がおかれます。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

真田 遼さん

編集あり2019/10/1422:27:44

武田信玄が英雄視されるのは江戸時代 徳川幕府の頃です。
家康が信玄を尊敬?していたのと徳川家臣団は旧武田家臣団を重宝したので、
「兵法は武田流」を推奨し、江戸時代には娯楽本の一種として「甲陽軍鑑(写本、レプラカ)が数多く出版され、江戸時代以降に「戦国最強)としてもてはやまる時代があり、信玄は江戸時代には庶民からもてはやされた。

usai21さん

2019/10/1421:59:28

「今の世に信玄が如く弓矢を取まわすものまたあるべからず。
我若年の頃より信玄が如く弓矢を取りたしと思ひたり。
敵ながらも信玄が死は悦ばず。おしむべき事なり。」

と当の徳川家康が崇拝していますからね。
禁じられるということはありません。

寛文12年には普通に百回忌の法要とかやってますよ。

あわせて知りたい

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる